1939年から1944年にかけて書かれた本。原書の出版は1947年。「西洋文明の根本的自己批判として名高い」んだそうな。著者のふたりはともにユダヤ系ドイツ人で、30年代にアメリカに亡命。本書もアメリカで書かれたもの。
解説によれば本書のモチーフは、
さしあたり文明とは野蛮に対立するものと考えられるとすれば、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていくいく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問いが、つまり文明がその反対物へ転化しているという現状認識に基づいて、その由来を尋ねること
であるらしい。序文を除くと6章からなる本書の前半は正直何を言っているのかよくわからなかった。4章の文化産業批判から後ろは何を言ってるのか何となくわかったが、その理由はと言えば、今でも言われるような話だからだ。60年以上前に、アメリカ人たちに放たれた言葉がこれ。
独り善がりのパラノイア患者は、私的で他の誰とも共有されず、したがってまったく狂っているとしか見えない図式に合わせて、勝手に外界をつくり上げる。そこから堰を切ったように出てくるのは、科学的なふりをしながら思考力を奪い取る、さまざまの宿命論的宗教団体や万能薬である。たとえば神智学や縁起かつぎの数合わせ、自然療法やオイリュトミー、菜食主義やヨーガなど、その他もろもろのセクトがあって、互いに競り合ったり交わり合ったりしているが、どれも皆、研修組織や階層制、特殊用語など、科学と宗教の物神化された、お定まりの公式を備えている。
またすでにグローバリズム批判もなされていて、
近代的コミュニケーションの網が張り廻らされて世界は統一的になり、外交官の朝食にしても、ダンバートン・オークスであれペルシャであれ特別のはからいをしない限り、ほとんどお国ぶりの違いが目につかないほどになった。
とある。他にいまでも通用しそうなところをあつめてみたのはこちら。啓蒙の弁証法より。
ところで、これを読みながら、世間様で大騒ぎの派遣切りの話なんかが頭をよぎったりしていた。不思議なのは、派遣村の人をバッシングする人たちの熱心さだ。バッシングしなければ自分が手を貸さなくてはいけないかのようなあの熱意はなんだろうと思いつつ本書を読んでいたらひとつの解釈にぶつかった。
国民大衆が当てにしている本来の利得は、自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。それ意外に得るものが少なければ少ないほど、いっそうかたくなに、人はより正しい認識に逆らって、大衆運動に加担するようになる。そんなことをしても何の得もないではないかという反論に対して、反ユダヤ主義はどこ吹く風だった。民衆にとって反ユダヤ主義は、ひとつの贅沢なのである。
別にこれが正解とは思わないし、何より反ユダヤ主義と派遣バッシングを同列に並べるのは愚かだけど、「人にケチをつける、叩く」というのがレクリエーション*1だと読むなら、案外当を得た分析なのかもしれない。
ただ今でも通じそうなフレーズがいっぱいあるというのは、人間はいつの時代も愚かだ的な話だけではなくて、社会批判、権力批判のやり方がこのとき使われていたものから刷新されていないということも意味する。いったいこのあとの60年という時間はなんだったのかと思う。哲学の領域のことは知らないが、我々の考える社会モデルやそれへの批判は、本書の中にすでに存在している。そりゃあ求心力もなくなるわけだと、この手の本を読んだときにいつも考えることをまた考えた。
でもそれじゃ芸がないので、なぜ変わらないのかということを考えてみることにした。おそらくは知的怠惰ということ以上に「だってこれが正しいんだもん」という意識があるからだろう。企業は金儲けを目的としているとか、権力は民衆を支配しようとしているとか、だから我々はやつらを批判しなければならないとか、人々の自由を取り戻せとか。間違っていないから修正の必要なし。ということなのかと推察してみる。あるいは本書の終わりの方で書かれているように、こうした見方を受け継いできた人は「理念を神のように」思っているのかもしれない。本書ではそうした理念の扱い方は「理念に対する自由さが欠けている」と批判されているのだけれど。
ネットのあちこちでの弱者救済批判を見るに、現代において本書が提示するようなフレームは説得力を失いつつあるように思われる(当時も失われつつあるように思われていたらしいので、こう思うのは俺もフレームから自由でない証拠かもしれないけど)。そうなる理由は明らかで、理念は好き嫌いをカバーできないし、日本では(他の国はどうなのか知らないけど)善悪や正誤と好き嫌いが密接に重なっているからだ。これをポピュリズムと切って捨てて何か言った気になるところに間違いがあるのではないかと個人的には思うのだが、「正しさ」が好きな人は「正しさ」は正しいのだから理解されなければならないと考えているかのように、見せ方を変える必要に思い至っていない。なんという保守性か。上記のような正しさを信奉するのはリベラルなはずなのに。
なんてことを言うとネット右翼とか言われかねないんだけども、自分の理想はどう考えても左翼提示モデルの劣化版(すくなくとも本人的には)だ。愛国だの品格だのという話にはとても乗れない。ただ「正しさ」を押しつける説得方法が感情的に反発され、それに対して感情の問題を知性の問題に置き換えた話をするのは不毛だよねと思っているだけだ*2。
そういう意味では、「啓蒙」と「弁証法」という単語でできたタイトルに惹かれて読んだこの本は、昔から同じような話が同じように批判されているという記録が興味深くはあっても、自分の探している答えはなかったと言える。俺が知りたいのは人間が愚かだなんて話じゃなくて、愚かな人間(もちろん自分も含まれる)が優しさと想像力を重ねるのに必要な何かなのだ。すくなくともそれは「他者に駄目出しするための正しさ」なんかではなく、たぶんモラルと感情が折り合えるようなネゴシエートの仕方なんだろう。
とまあそんなことを考えながら読み終えた。
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)
Max Horkheimer Theodor W. Adorno 徳永 恂
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