Kate Summerscale The Suspicions of MR Whicher: or the Murder at Road Hill House

 2008年The CWA Gold Dagger for Non-Fiction部門最終候補。SAMUEL JOHNSON PRIZE 2008受賞作品。
 1860年、イギリス南部ウィルトシャーの村、ロードで殺人事件が起きた。被害者はフランシス・サヴィール・ケント三歳。本書はその事件の顛末をドキュメント風に追いかけたもの。
 事件は六月の終わりに起きた。夜中、メイドと同じ部屋で眠っていたサヴィールが何者かに毛布ごと連れ去られ、翌朝庭にあった簡易便所の中で死体で発見される。首はほとんど切断状態で胸には刺し傷。口の辺りに鬱血が見られた。痛ましい事件であるが、これが世間の注目を集めた理由は、ケント家が夜中は厳重な戸締まりをする家で、大きな意味で密室状態の中、事件が起きたからだ。殺人犯は屋敷内部の人間であるということになる。サヴィールと同じ部屋にいたメイドが怪しい、いやメイドと父親が不倫をしていて、サヴィールは現場を見たために殺されたのだ。先妻の子どもの誰かが後妻の子どもを妬んで殺したのだ。様々な憶測がまことしやかに村を駆け回る。
 ケント家は土地の有力者であるため、地元警察は取り調べに手心を加え、それをメディアがバッシングする。とうとうロンドンに救いの手を求める電報が打たれた。やってきたのはスコットランド・ヤード一の名探偵ジョナサン・ウィッチャー。彼は見事に幼児殺しの犯人を挙げられるのか。
 と、ここまで読んでお分かりのことと思うけれども、このロード・ヒル・ハウス殺人事件はあまりにも典型的な「館もの」の筋立てを持っている。外部から閉ざされた屋敷、入り組んだ家庭、それぞれの抱える秘密、役に立たない地元警察、都会からやってくる名探偵。
 典型的なのも実は当然でこの事件こそがミステリの定番設定をフィクションの世界に提供したものであるらしい。
 本書が扱うのは現実に起きたこの事件が探偵小説にジャンルに及ぼした影響と事件当時の社会がこの事件をどのように読み解いたかということへの分析だ。
 1860年、すでにポーは名探偵デュパンを世に送り出していた。事件当時、ウィルキー・コリンズは「白衣の女」を連載中。すでにミステリーというジャンルは成立していたかのような印象をもたれがちだが、ここに出てくるジョナサン・ウィッチャーは、デュパンと同じくらい後世の名探偵像に影響を与えたカッフ部長刑事のモデルになった人物*1で、「月長石」は筋立てもこのロード・ヒル・ハウス殺人事件を下敷きにした節が見られると著者は言っている。
 この事件は、「月長石」でビタレッジが「探偵熱」と呼んだものをイギリス全土に巻き起こし、その結果関係者は外に出るのも憚られるような状態で、今で言う報道被害に遭ったようだ。別にメディアだけがそうしたわけでなく、市井の人々も自らの推理を披露せずにはいられなかった。当たっているのから大外れなのまで百花繚乱の様相を呈した*2ディケンズ始め、当時の作家たちも熱心に事件を推理した記録が残っている。
 なぜそんなにも皆がこの事件に取り憑かれたか。それはこの事件が、身内ですら心を許せないかもしれないという不安を煽ったからだ。いつの時代もそうであるように1860年代も社会は伝統的な価値観が崩れゆくまっただ中にあった。宗教の権威は地に落ち、その代わりに科学の力が勃興しようとしていた。誰もが変わりゆく社会に不安を抱きつつ生きていた。そんな中で、家庭内に殺人者がいるかもしれないというメッセージが大々的に宣伝されれば、いやが上にも不安は煽られる。18世紀であれば、それを癒すのは神の心だったかもしれない。19世紀にはその役割が科学担うことになった。犯罪を扱う科学者、すなわち探偵が。
 しかしながら、同時に彼らは人のプライバシーをのぞき見する悪魔でもあった。当時の探偵実話やすこしあとの時代のミステリーの引用を織り込んだ著者の筆致(ミステリー仕立てに書かれている)は大変説得的にそこら辺を浮き彫りにする。またウィッチャーの書いた捜査報告書さえも織り交ぜられたそれはノンフィクションとフィクションを融合させ、この事件が史実なのかよくできた小説なのかを曖昧にさせていく。個人的にはその不思議な熔解感が読みどころかと思われた。事件を追いかける部分も二転三転する展開で、最後の方になって、この辺は蛇足かなあと油断していたら、まだツイストがあったりして飽きさせない。ノンフィクションでありながら、完全に推理小説でもある力作だった。
 文春か早川あたりから翻訳を出したら似合うと思う。

関連サイト:http://www.mrwhicher.com/(本書公式サイト)←音が出ます。
http://www.bloomsbury.com/Authors/links.aspx?tpid=2923(出版社によるレビューリストなど)

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Kate Summerscale

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追記:翻訳出たので、そちらへのリンクも張っておきます。

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件
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2013/06/15追記 原書がキンドル版になっていた。確認時の価格は767円。

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追記2016/04/29
 邦訳が文庫落ちしていた。
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*1:カッフの趣味がガーデニングなのも、ウィッチャーに源流が求められている。

*2:「被害者の網膜を調べれば、瞳に犯人の顔が写っている」というブラックスワンが氷河と戦ったときにも採用された謎の迷信は、どうもこの事件のときに初めて提案されたらしい。カメラからの連想で生まれた考えだったようだ。