シオラン 金井祐訳 カイエ 1957‐1972

 ここんとこ、諸事情からシオランウィキペディア)の著作に随分目を通していた(読んだというのは憚られる感じだが)。『思想の黄昏』、『実存の誘惑』、『時間への失墜』、『悪しき造物主』、『生誕の災厄』、そして本書。なんでも「バルカンのパスカル」なんて異名もあったそうだ。生まれはルーマニアで、最終的にはパリに住み、はじめは母国語で、のちにはフランス語で文章をものしていた。
 ざっと目を通したところ、対俺との相性的に長めの評論だか思索だかは全滅。何を言ってるのだかほとんど分からず、たまに分かった部分については「中二病?」というフレーズが浮かぶ。割と読めたのはアフォリズムの部分(もっとも、三分の一くらいしか乗れない気もしたが)。どれかの訳者あとがきで、訳者が本を床にたたきつけただか、壁に叩きつけただか書いていたのもむべなるかなと思う。
 書いてあることの三分の一は「死ぬのがいちばん」みたいな主張であり、三分の一は「私は絶望している」であり、残りは文学や詩についての雑感みたいなものだ(大ざっぱな印象で)。これは目を通した本全部の比率の印象。正直鬱陶しいと思わないでもない。いま著者が生きていて、うかつにネットに公開でもしていたら、「チラシの裏にでも書いていろ」と言われそうな印象を持った。
 で、本書「カイエ1957-1972」は、まさにチラシの裏。著者が書きためていたノートをまとめたもので、もちろん公開の予定はなかった(ただし、公開される可能性を考えたらしく、関係者の名前があとからイニシャルにされるなどの処理がされた形跡があるらしい)。
 そこでも著者は「私ほど絶望している人間はいない」、「私の絶望の深さと来たら想像を絶するほどだ」と叫んでいる。五〇になる寸前から六〇の声を聞くまで延々と。
 ばんばん流し読みしつつ、著者十五年年間の繰り言を見ていくうち、しかし俺の目はだんだんにゆっくりとしたペースで移動するようになっていった。
 我ながら不思議だったが、この誰にも見せるつもりがない、つぶやきを一年分二年分と読んで行くに従って、俺はどうも著者に親しみ混じりの好意のようなものを感じ始めたみたいなのだ。考えてみれば誰かの十五年分の思考を聞き取ることなんて、まずない。友人の会話はあくまで友人同士の公開性に則って開示されるわけで、本書ほど内面をさらけ出すようなことはない。一年に一度くらい散髪や銀行の処理でトラブルがあって、キレそうになるのを我慢して帰ってくるエピソードがあってそのときの「自分も成長したんだ!」っていう無邪気な喜び方とかを見ても、公開目的とはとても思えない。となると、俺は誰よりも親しい告白を著者から受けたことになる。それも十五年分。好意を持たないのは無理というものだ。
 たとえば、こんな台詞を読んで俺は彼を好きになった。

p.270
復讐しなければと思って起床したが、相手がだれなのか分からない。

p.360
 自分の欠点を直そうとしたあまり、自分がどうなっているのかもう分からない。

p.901
 私たちの記憶の最深部にしまいこまれた、はるか昔にやらかした不作法の数々、私たちがこれを思い出すのは、憂鬱のおかげだ。憂鬱は私たちの恥の考古学。

p.928
 真夜中を過ぎると、私には自分を不憫に思う傾向があることに気づいた。早寝の習慣をつけなければなるまい。

 別に共感してくれとか、アドバイスをくれとか言うんじゃなく、こんなことを胸に抱えて生きているおっさん(五十過ぎ)で、こういう告白を残しそれを俺が読んだ以上には、なんの関わりもないとなれば、嫌う要素はどこにもない。ってか、上記フレーズ、可愛くない?
 一歩自分語りの外に出て社会を語ったりすると、もうとても頷けるようなことは言ってくれず、うんざりさせられたりもしたけれど、一度好きになってしまえば「しょうがねえなあシオランは〜」って感じで、眺めることができる。もちろんこんな人なんで、友人連中はじめ同時代人への評価も基本的には悪口が多い(エリアーデベケットなんかとの交友も出てきて、彼らにだけは多少眼差しが優しいような気がした。)。特にサルトルなんかはぼろくそ言われているし、バルトも「なんてひどい文体だ!」とけなされていた。褒められていたのはバッハ、パスカルタキトゥスあたり。軽蔑した相手や悪口書いている相手は基本的にイニシャルなので、誰のことか、俺には判然としなかったけれども、その悪口の中に混じってこんな記述が顔を覗かせるのも、著者自身ほんとうに自分をもてあましている感じがして悪くは思えなかった。

p.602
ある人間がやたらと幸福であってはじめて、その人間を存分に憎むことができる。

p.820
 私は才気をひけらかす連中は好きではないが、才気をひけらかすことができない連中はいっそう嫌いだ。

p.999
 二十歳【ルビ、はたち】のとき、私は老人どもを皆殺しにすることしか考えていなかった。これはいまも喫緊事だと思っているが、さらにこれに若者どもの皆殺しを加えておこう、といまは思っている。歳をとるにつれて、私たちのものの見方はより完全なものになるものだ。

 んでもって、死ぬことばっかり考えてそれを出版しているもんだから、自殺の相談みたいな手紙が来ることもあったそうで、そういうとき彼は全力で、「自殺なんて止めましょう」といちいち返事を認めていた(ことへの悔しさみたいな記述が散見された)。こういうエピソードなんかからも人間味が感じられた。あと次の断片は俺が本書中いちばん微笑ましい気分になったところ。

p.949
 カースから電話。あまり〈張り切り〉すぎていて、〈水をさして〉もらう必要がありそうだから、私に会いたいと言う。
 私の理解が正しいなら、人の気力をくじくのがどうやら私の特技らしい。

 ちょっと傷ついたように見えるんだけど、どうだろう? すべては空しい。成功は無意味だって主張を繰り返しているんだから、カースさんの判断は正しいと思うんだけど、そこはかとないユーモアが漂った場面に思える。
 で、このシオランは絶望と自殺のことばっかり言っていたんだけども、本人は天寿をまっとうしたそうだ。こんな内面を抱えて生き続けるのは大変だったろうなと思いつつ、自殺せずに死んでくれたおかげで、これらの記述に重たい文脈が貼り付かなかったのは、読者としては幸いだった。ちなみに死ぬことを考えることで本当の自殺を防いでいるとは本人の弁だ。
 さっき自分語りを外れるととても頷けないと書いたけど、その中にあって、文学についての洞察などは説得力があり、やっぱり専門家は専門を語るに限るねなんてことも思ったのだった。実際、自分語り以外で強く頷けたところもいくつもあったんだけど、キャラのいとおしさに隠れた感もある。いま思い出せるのは以下の二カ所。

p.914
(考えるということ)はニュアンスの探求であって、単純化することではない。ところで、ニュアンスはカテゴリーの敵だ。

p.922
 すぐさま行動に出ない――こういう態度がとれるその限りで、人間は自由【原文傍点】だ。人間の自由を保証するのは、反射神経の機能低下だけだ。機能低下によって人間には考え、吟味し、選ぶ余裕が与えられるからだ。

 すっごい楽しく、また愛おしい本ではあったが、問題点もいくつか。まず重い(2段組1000ページを超えたハードカバー)。次に高い(この繰り言に28000ですと!?←2019/02/20追記:品切れになりamazonの古書価格みたら、一瞬「このときに買っておけばよかった」と思った。どうなるかはわからないものである。)。つーことで人にはあんまり勧められないのが残念。
 カイエの断片のいくつかはそのまま別の本にも組み込まれていて、俺が読んだ限りでは、「生誕の厄災」がかなりダブっているところが多かったので、上の引用見て興味を持った人、もしくはウィキペディアの著作一覧を見て、はったりとしか思えないタイトルにちょっと惹かれた人はそっちを読むと良いかもしれない。(追記2013/10/31無論、本人が運営しているはずはないのだが、https://twitter.com/Cioran_Jpで、シオランのことばが呟かれている(日本語)。どんなこと言うのか、興味がある人はぜひどうぞ)
 一読者としては、年末に良い本に当たったので、この分量を訳しきった訳者に感謝したい。読みやすかったし。
 いちばん評判をとったのは、『崩壊概論』って本らしいのだけれども、近所の図書館にはなく、絶版なので、諦めて英語版でも読もうかと思っているところ。

カイエ 1957‐1972
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