ぼくが百聞を見つけるまで。あるいはSeeing is believing がなぜ百聞は一見にしかずなのか?

 タイトルのような疑問がふと浮かんだ。
 このフレーズを知ったのは受験勉強のときで、そのまま暗記したものだったが、当時から「百聞はどこにある?」というのがちょっと引っかかっていた。
 そして夕べふと「seeingであってlooking at じゃないということは、見るつもりで目を向けるんじゃなくて、見えたものを信じるということか。だったらいくらでも騙されるなあ」などと思い、「百聞は一見にしかず」というよりも「見えちゃったものは信じちゃう」とかが正確な意味ではあるまいかなどと考えた。年柄年中しょうもないデマが拡散されているのを目にしているからかもしれない。そして、懐かしの疑問が戻ってきた。「百聞はどこにある?」である。ついでに言えば、seeing is believingって参考書以外で見たことあったっけ? なんて疑問も浮かび、ようやく自分がこのフレーズのことを何も知らないと気がついた。
 そこで、seeing is believingで検索をかけたが検索結果の画面から判断すると、「百聞は一見にしかずという意味です」的なことを書いてそうなものばかりだったので、検索wordにoriginを加えてみた。
 出てきたのが辞書の記述をまとめたこのサイト。
https://idioms.thefreedictionary.com/seeing+is+believing


 そのなかにこんな記述があった。

seeing is believing
Only physical or concrete evidence is convincing, as in She wrote us that she's lost twenty pounds, but seeing is believing. This idiom was first recorded in this form in 1639.
See also: believe, seeing
The American Heritage® Dictionary of Idioms by Christine Ammer. Copyright © 2003, 1997 by The Christine Ammer 1992 Trust. Published by Houghton Mifflin Harcourt Publishing Company. All rights reserved.

 「物理的、あるいは具体的な証拠だけが説得力を持つ」が冒頭の適当な訳。as in のところは用例だと思うけど、ここですでに発見があった。このseeing is believing、おれには「見るまでは信じない」と読めるのだ。全体の読み取りは「彼女の手紙には二十パウンド失ったと書いてあったけど、見て確かめるまでは信じない」みたいな感じ。で、このイディオムがこの形で最初に記録されたのは1639年だったという情報もゲット。が、ページのいちばん下まで行くと、

seeing is believing
Only concrete proof is convincing. The idea dates from ancient Greek times, and the expression appears in numerous proverb collections from 1639 on, in English and many other languages. Some writers disagree. Jesus told his doubting disciple, Thomas, that it was more blessed to believe without seeing (John 20:29). Also, “Seeing is believing, says the proverb . . . though, of all our senses, the eyes are the most easily deceived” (Hare, Guesses at Truth, ca. 1848), and, “Seeing is deceiving. It’s eating that’s believing” (James Thurber, Further Fables for Our Time, 1956).
See also: believe, seeing
The Dictionary of Clichés by Christine Ammer Copyright © 2013 by Christine Ammer

 と書いてあった。考え自体は古代ギリシアの昔からあるそうで、1639年ってのは英語の確認されている初出ということらしい。
 だいぶ勉強になった。
 ただ、まだ「百聞はどこにある?」の疑問が解けないので、1639年の用例ってのを見つけたら文脈でわかるのだろうかとグーグルの検索結果を眺めて行くと、こんなのが見つかった。

TIL the often-quoted idiom "seeing is believing" leaves out half of the original sentence. The full quote from 17th century English clergyman, Thomas Fuller, is "Seeing is believing, but feeling is the truth."

https://www.reddit.com/r/todayilearned/comments/5dkq9e/til_the_oftenquoted_idiom_seeing_is_believing/

 マジか。「百聞はどこにある」どころではなく、見ることが感じることと較べて下げられてるじゃねえかと驚き、リンク先のウィキクオートを眺めにいった。
en.wikiquote.org
 冒頭に「Thomas Fuller, M.D. (24 June 1654 – 17 September 1734) was a British physician, preacher and intellectual.」と書いてあるので17世紀の人か18世紀の人かは微妙とか思いつつ、seeingでサイト内検索をしてみると、三件ヒット。二件目が上で引用されていたもの(形は「Seeing's believing, but feeling's the truth.」とisが縮んでる)だったんだけど、ついでに見てみた三件目がこうなっていた。

Words are but Wind ; but seeing is believing.

 直訳するなら「言葉は単なる風である。一方、見ることは信じることである」くらい。
 ってことで百聞見つかった! 原文の前半が省略されてたんだな。(少なくとも日本語世界の原文出典箇所として考えるなら、二件目より三件目が引用元と考えられるので、省略されているのは、二件目の後半でなく、三件目前半と考えるのが妥当だろう)
(なお、出典は『Gnomologia: Adagies and Proverbs; wise sentences and witty saying, ancient and modern, foreign and British』という本で、たぶんいろんな箴言とかことわざとかを集めた本。なので、この人のことばというわけではない)。
 
 ところで日本語訳の「百聞は一見にしかず」の出典は? ってのもついでに調べてみたら『漢書』だという話であった。
chugokugo-script.net
上のサイトから該当箇所の訳文を載せておく。

前漢の宣帝が使者をつかわして、趙充国にこう尋ねました。

「将軍は漢に従わない異民族の羌の勢力がどれほどであると思う?あやつらの反乱を鎮圧するには、どれほどの兵力が必要だと思うか」と。

趙充国はそれに答えて「百聞は一見に如かずです。軍事の現場はここから遠く予想がつきません。願わくば、私が自ら金城(涼州金城郡。現在の甘粛省)に馳せ参じ、地形を図に描いて、それから方策をたてまつりましょう」と言いました。

 
 ちょっとすっきりした気分。

追記:投稿してから猫とごろごろしていてふと思ったのだが、「Words are but Wind ; but seeing is believing」の前半省略を補って「百聞は一見にしかず」と訳したのだとしたら、力点を省略したほうに移していることにならないだろうか。漢文のほうは「聞」なんて「見」に較べたら役に立ちませんって言ってて、トピックは「聞」にあるような気がするんだけど。この訳語を使うんだったら、「Words are but Wind」を残さないと駄目なんじゃないか? まあ、訳っていうよりは「似たことわざがあります」って感じ(漢文は比較だけど英文は対比だし)だから、目くじら立てることでもないのかもしれないが。

シャドウバンを食らった。

 ツイッターの話。
 今となっては一昨日のことだが、維新の梅村みずほ議員が有権者からのメールを不幸の手紙呼ばわりした。
維新の梅村みずほ参院議員、市民のメールに「不幸の手紙思い出す」⇒「有権者バカに」批判殺到(検察庁法改正案)【UPDATE】 | ハフポスト
 で、それを見て、ああ、こんなのが議席を取って、共産党のたつみコータローが落選したんだよなあ、前回の参院選大阪と思ったので、こんなツイートをしてみた。

 で、割と反応をもらっていたのだけど、突然通知が途絶え、なのに見に行くたびにRTやらいいねやらが増えている怪現象が起きた。そこでこれは噂のシャドウバンってやつではあるまいか(シャドウバンの解説はこちらを参照)と思ってチェックしたら……

 食らってた。
 上記サイトの推測だと外部リンクが多いとやられると書いてあって、たしかに外部リンク(新聞社とかはてブとか)も使っていたので、やられても不思議ではない。ついでに #安倍はやめろ とか #検察庁法改正案に反対します とかのタグも濫発していたから、タグが原因であっても不思議はない。不思議なのは症状である。検索からいないことにされるというのは聞いていた通りなんだけどね、たとえばタグだったりリンクだったりが原因でシャドウバンされたのだとして、なんで上に貼ったツイートへの通知だけ来ないようになったのか(ほかのツイートへの通知は今も来る)。よくわかんねえんだけど、この症状がシャドウバンに由来しているなら、上のツイートがバンの原因になったと考えるしかなくなるが、上のツイートに埋め込んだ動画は外部サイトのものじゃない。タグも使っていない。何がいけなかったのかがよくわからないのである。
 もちろん、ネトウヨ企業説濃厚なツイッター社なのでツイート内容が気に入らなくてバンに及んだってな、よく聞く噂話事例が我が身に降りかかったという仮説も考えられるのだが……正直、考えられるってだけに思われる。というのは、噂で聞くツイッターの偏向はあくまでも安倍政権寄り、自民党寄りであって、維新寄りというのは耳にした覚えがないのが一点。上のツイートはインプレッションも一万程度で狙われるとも思えないのが一点。たとえば、このツイート


なんかは安倍政権批判ツイートだし、インプレッションも42万稼いだけど、シャドウバンはされなかった。だからたかだか1万インプレッションでしかも批判先が維新の議員なんてツイートに目くじら立てられるとも思えない。いったい何が起きているのやら。

 とか言って寝て起きたら解除されていた。謎である。

読書サイト更新『ママは何でも知っている』

 気がつけば今年初めての更新か? 割とほわっとした短編集で雰囲気がよかった。ほかにロスマクの『さむけ』、辻真先の『焼跡の二十面相』、宮内悠介の『遠い他国でひょんと死ぬるや』、竹本泉『ねこめ(~わく)』なんかを読んでそれぞれ面白かったのだけど、感想まとめる気分にはならなかった。なんで本書は書く気になったのか……気まぐれだよね、そりゃ。
gkmond.blogspot.com

Roomの薔薇

 チェッカーズのRoomの話である。
 このエントリでこんなことを書いた。

当時から歌詞について一箇所引っ掛かっているところがあって、靴を履きかけてふと振り向いたときにあの日の薔薇が咲いてるってところ。引き払うときに窓辺の花瓶は置いていったの? 水入れたまま? でもって、なんで薔薇は復活したの? いつもここを聴くとET的なイメージが浮かぶんだけど、なんのメタファーなんだろう。花が色褪せて二度と愛は戻らないことを知ったっていうんだから、その花が咲いてるなら復縁におわせてるってことなのかなあ。謎である。

 とりあえずどんな曲かは↓を見て欲しい(すんません、自分が見たくて貼っただけです)。
www.youtube.com
出典はたぶんこれ。

で、いきなり脱線するが、このツアーのオープニングがこれ。最高ではあるまいか。
www.youtube.com

 閑話休題

 で、この薔薇については上のような疑問が1989年からずーーーーーっとあって、「わからーん」ってなっていた。歌詞カード見ると冒頭に、

君が窓辺に 挿した薔薇を
もうどれくらい 眺めてたのか
花は色褪せ 二度と愛は
戻らないことを知ったよ

とあって、いかにも愛のシンボルっぽく使われている。
のだけども、二番にこんな歌詞が出てくるわけ。

靴を履きかけて ふと振り向いた時に
あの日の薔薇が咲いてる

愛のシンボルだったら復活しちゃってるじゃん、愛。なのに、なんでそのあと復縁話にならないわけ? というのが、謎で、解釈ができないもんだから「郁弥さん、かっこよさげなフレーズを並べたんですね、じつはこれ、適当ですね」とか思うことにしてやりすごしてきたんだよね。
ところが、さっき煙草吸ってたら突然「あれってもしかして記憶のメタファーじゃね?」という閃きが訪れた。

そう思って歌詞を見直してみると、Roomの一番は一貫して時間と記憶憶の話をしているように見える。
別れの場面も記憶だし、「ふせた写真立て」「倒れた空のマニキュア」も「瞳を伏せたく」なる記憶のトリガーだ。
で、「時が過ぎるのが怖い 君が遠く離れてく」ってサビの「君」も正確には「君の記憶」だと思う。

二番になって、ふんぎりつけるぞーと語り手は「何も告げずに出てゆくつもり」になる。
で、問題の箇所が来る。

靴を履きかけて ふと振り向いた時に
あの日の薔薇が咲いてる

 読み返してほぼほぼ確信したが、薔薇は記憶だ。(異論は認める)
 何を見落としてたかというと、この薔薇を「あの日の」を無視して冒頭の薔薇と同じものだと思っていることに気づけていなかった。
 やっぱり部屋を引き払おうってときに窓辺の花瓶が残ってるわけもない。
 このシチュエーションでふと振り向いたら何が見えるかってがらんとした部屋であり、そこで咲くものは何かっつったら、思い出しかあり得ない。
 ぶわあああっと溢れた思い出の数々が薔薇のように美しかったから、まとめて「あの日の薔薇」と言ったと考えるなら、次の行が「この部屋で君を愛し そして君を抱いたね」になるのも頷ける(メロディーからの要請って話とは別に。歌詞だけを見たとして)。思い出に呑まれているから。でもって、薔薇に較べたら不思議度は低い「誰かこのドアを閉じておくれよ」の「このドア」ってなんじゃいという疑問も解ける。当然これは「思い出を閉じ込めてある記憶の部屋」のドアで、「薔薇が咲いてる」と表現された記憶の想起は今度は部屋のメタファーに変じて語り手が自力で扉を閉められない=振り切れないものとして提示される。で手元を見ると「もう二度と使うことのない鍵が てのひらで二つ」あって、それを「長い日々への終止符(ピリオド)みたい」だと感じる。
「郁弥さん、かっこよさげなフレーズを並べたんですね、じつはこれ、適当ですね」とか思っててほんとすみませんでした。むっちゃロジカルに作られてますわ、これ。さすがおれが30年以上も愛してやまない曲の歌詞、そんな適当だったらずっと好きでいられるはずはなかった。
 すごいすっきり! ……なんだけど、スージーさんはここスルーしてたし、ネットでもこの薔薇のこと書いてる人見た覚えがないんで、たぶんこれ、わかんなかったのおれくらいなんだよね、たぶん。作詞レベル舐めてたのかな、いや、そんなつもりもなかったんだが(いささか戸惑い気味)。 

豊洲PITに行ってきた(前半執筆時期12月3日くらい)

 先日ブックオフに行ったらば、中古CDコーナーに『SCREW』『エンジェル』『PURE RED』と家のなかで紛失中のタイトル3点が安く並んでいて、中古なのに気が咎めた(買っても印税が発生しないから)ものの、一度は定価で購入しているんだから、まあ許してくれと入手し、取り込みにちょっと苦労してAmazonでデータの確認をしていたら、『エンジェル』のカセットテープ版なんてものが出てきて、こんなもん売ってたのかと驚き、驚いた勢いのままTwitterにリンクを流したら、いいねしてくれた人がいて、その人のタイムラインを覗いてみたところ、フミヤのツアーが始まったよとのツイートがあり、そっかもう始まったのねとオフィシャル見に行くと、チケットがまだ売り切れていないじゃないかというとことでなんとなく購入してしまい、ゆりかもめに揺られて豊洲PITまで行ってきた(一文で書いたがざっと一ヶ月くらいの期間がある話である)。

 前回フミヤのライブに行ったのは2018−2019カウントダウンライブで、そのときは後から知った話でその場では気づかなかったんだけど、入場時に気分上がりすぎたファンがフェンスを倒したんだかずらしたんだかというトラブルがあったそうな。今回はオールスタンディングのライブハウスが舞台。近くでみようなんて思ったら怪我しそうだし、まわり女性だらけだと押し合いへし合いは避けたいしということで、後ろのほうの空いているところで見ると心に決め、入場もギリギリ、というプランで出発したのだが、電車に乗ってしまうと「途中で遅延とかあって遅刻したらなんだし」みたいな気分になり、会場近くのお店で時間潰せばよかろうなんて思って会場前に新豊洲に到着。そしたらなんか、まわりに時間潰せそうな場所が見当たらず(探し方が悪かっただけかもしれない)、結局会場近くの人だかりに加わるしかなかった。すげえ寒かった。あんな寒かったのはエルムに行ったとき以来である。開場するとすぐに番号のカウントが始まって「○番から○番の方どうぞー」みたいなアナウンスが聞こえてくるが、当方2412番。毎秒一人入るとして40分かかるので、『OOOP!』でも聴いてようと再生ボタンぽち。そしたら案外早く入場できた。係の人たち迅速なお仕事ありがとう。荷物は外のコインロッカーに入れた(が、入れるのはともかく、帰りに出すのが人あふれてて大変だったので、違うやり方があったんじゃなかろうかと思った。)。会場は人が集まっているので暖かく、大変助かった。

 で、ライブである。ショッキングピンク(っていうんだろうか、あの色)のシャツがとても似合っていたフミヤさんが歌い出し、それが知らない曲だったので、あとで検索せねばと考える、そんなスタートから、おーこれ、あーこれ、ひゃっほうでMCからのまさかのあれ、くらいのところで、また来ようと思っていた。(まだツアー中で、どうもこういう話にもネタバレという概念があるらしいため、ぼやぼやにぼかしました)。このあたり、シンプルなステージセットと照明が洗練されたアングラ感(何それ)みたいのかもしててとてもよかった。そんなふうに思ったからかスタンディングエリア後方から見る上半身だけのフミヤが澁澤龍彦みたいにも見えた。似てるかどうかといえばたぶん似てないんだけど。

 

追記。2019/12/31 YouTubeライブ配信されてたやつ、アーカイヴになった! わーい! なお、映像でちゃんと見れば、おれだって藤井フミヤ澁澤龍彦の区別はつくので、猛烈な勢いで記憶が上書きされていっているのだけど、当日の遠目に見た印象もそれはそれであとで懐かしくなるかもしれないので、そのままにしとく。このあと、ネタバレまくりゾーンなので、そんなもん読むまえにまあ映像見てくれ。

 

 

 というようなことをライブ行った直後に書いて、曲名出せないのがつまんなかったから放置していたのだけど、無事にツアーも終わったので改めて。一曲目はTime Limitであった。勝手にBETから始まるんじゃねえかなあと思っていたので、前奏で、え、何これってなって、歌始まって、え、ほんと知らない曲だよ、油断してたと思った。帰宅後速攻で購入した。結構中毒性の高いいい曲である。

 二曲目はMy Typeであった。「かーなーりー、マイタイプ♩」ってとこで客席に指を差すと黄色い声が沸いて、しかもそれが振り切れてる感じでもなく、後ろのほうの私、勝手に様式美など感じていた。にしてもさすがに年季の入ったモテ男はモテしぐさが似合う。そしてそのままLady Sister Babyへ。出だしのベースが生だと迫力あってよかったが、マイクのエコーが強かったのかこちらの耳の問題か、フミヤが曲の途中でなんか言ってるのは聴き取れなかった。そしてそっから「めーがみーをー♩」って次の歌始まりわーいってなった。ソロのシングルだと『女神』が一番好きかもなので。生で聴いたのは二度目だけど歌ってくれると嬉しい。

 で、MCが入りーのーから、大人な曲が来るって言うんでなんじゃらと思った途端、赤いライトとともに始まったのはチェッカーズの「そのままで」最初に買ったアルバムの二曲目で、当時まさに「大人だ」と思った曲。そしてまたしても知らない曲。これも覚えておかねば(同じ雨って曲だった)と思いつつ音に身を任せていると、やがて「点線」が始まる。これも聴けてラッキー感のある名曲だと思う。で、「わらの犬」を懐かしい気持ちで聴き、「Endless Snow」のトゥルル、トゥルル、トゥルル♩に嬉しくなり、MCが入って「そのドアはもう開かない」「Another Orion」「ラブレター」「True Love」と流れていった。で、普段、他の曲はいいんだけど、「Another Orion」ばかりは、音が少なすぎて今聴くのは厳しい(音源でイメージ作ってるから離れすぎるって意味ね)というイメージを持っていたのだけど、この日はとてもいい感じの声に思えた。むしろ他曲よりクリアに聴こえたくらいで、帰り道では勝手に本日のベスト認定したりした。

 で、MCで昭和平成令和みたいな話をして平成元年の歌を歌うと宣言。そう聴いてもなんだんべ。平成元年ってことは「Seven Heaven」のなんか? まさかプロローグ? などと抜け作なことを考えていた私、Roomの前奏始まって感涙にむせぶ。そうじゃん、Room平成元年っていうか「Seven Heaven」に収録されてるじゃん、なんで最初に閃かなかった。うわ、無茶苦茶嬉しい。生でRoomだよ。かっけえって思ってから30年経って、ついに生で聴いちゃったよと頭がすっかりパーになったところで大好きな「ミセスマーメイド」に移行し、もうこの数分間はおれのためのメニューみたいな満喫感。すげえよかった。じつによかった。2017ー18カウントダウンの最初3曲も痺れ倒したけれども、それと同じくらいよかった。で、「ミセスマーメイド」終わって、静かになって、MC入るのかと思いながら余韻に浸っていたら「こーよーいのふーたりは」って、まさかの「One more glass of Red wine」スタート。マジか、100vのペンギンより先にこっちを生で聴くのか。これはしっかり聴かなきゃ、と思っていると突然小芝居が始まり、フミヤが「じゃーんけーん」とか言って片手をあげる。二千五百本の腕が呼応する。おれもたしかチョキ出して負けた。サザエさんでもっと鍛えておけばよかった(サザエさんが今もじゃーんけーんってやってるかは知らない、っていうか、まだサザエさん放映しているのかも知らない、そういえば。とにかく負けたのである)。気分的にはここがクライマックスだったかもしれない。この日のことを思い出すとまず浮かぶのがあの二千五百本の腕である。

 で、MCで「それじゃ後半行こうか」というので、まだ半分なのか、嬉しいーと油断していたら実際には7割くらいのところまで来ていたので、畳み掛けるように、「Tokyo City Night」「Crystal Blood」「La La La Stranger」「GIRIGIRIナイト」と進んでいき、「WE ARE ミーハー」の前奏でキャーって声が上がるのと同時に「ラストソング!」との無情な宣告。「キャーーーエーーー」みたいに反応切り替えた皆様の反射神経に感心したり。サックス吹きながらコーラスもカバーする尚ちゃんもかくやな切り替わりだった。

 そしてアンコール。流れてきたのは「DO NOT」。強気。ファルセットちゃんと出るのか。うわ、出てるすげーーーー。感激。そのあとのMCで情け容赦なく次でおしまいを宣言して「Tonight」歌って終了。あっという間であった。27日にはYouTubeでライブのリアルタイム配信やってて(あんなにアングル替えられるのすごいね、生なのに)、声は配信の方が聞き取りやすい気がしたんだけども、やはり聴くなら会場でありということも再確認できた。お客さんの声とか様子とか配信だとほとんどわかんないし、音の厚みは全然違うし、何よりも照明の効果が客席から見てナンボで設計されてんだよね。ライトの使い方がほんと上手なのは、カメラ越しだとあんまりわかんなくてもったいない。来年はなんとF-BLOODのツアーがあるというので、また行こうと思っている。準備で唯一(たぶん)持っていなかった「天国までの百マイル」も買った。びっくりするくらいいい曲だったので、これも生で聴いてみたい。楽しみ楽しみ。

 

読書サイト更新 『f植物園の巣穴』

『沼地のある森を抜けて』で文章うめええ! って、改めて驚き、それを勢いにして読んだ。『沼地』は「光彦!」にのけぞったんだけど、今回は地の文でのけぞるところがあった。あの愛らしくも恐ろしそうな歯医者行ってみたい。
gkmond.blogspot.com