へたっぴ訳「青い十字架」

青い十字架

G・K・チェスタートン 著    
gkmond 訳
    

 銀色をした朝の光のリボンと、碧く輝く海の光のリボンのあいまを、船はハリッジに着岸し、ハエのように群れなす人々を解き放った。そしてその中にあって、われわれが追いかけなければならない男はまったく目立ちもせず――また目立ちたいとも思っていなかった。男には変わったところは何もなかった。ただ、いかにも休暇っぽく華やかな出で立ちに対して、いかにも勤務中であるかのような厳めしい顔つきが、いささかそぐわなかった。服装の方は、薄灰色をした細身のジャケットに白いヴェスト、それに灰色と青のリボンをあしらった銀色の麦わら帽子。一方、顔の方は引き締り、よく日に焼けて、服の色と好対照をなしている。短く揃ったヒゲを顔の下半分に蓄えた様子が、スペイン人っぽくもあり、またエリザベス朝のひだ襟を連想させもした。男は怠け者特有の生真面目さで煙草を吸っている。見た目にはわからなかったが、薄灰色のジャケットの中にはリボルバーが、白いヴェストの中には警察手帳が、そして麦わら帽子の中にはヨーロッパ有数の知性が隠されていた。この男こそ、誰あろうパリ警察のトップにして世界一有名な探偵、ヴァランタンその人だったのだ。いまはブリュッセルからロンドンへの旅の途中で、これから世紀の逮捕劇を演じることになっている。
 フランボウはイングランドに来ていた。三カ国の警察による合同調査で、とうとう掴んだあの大犯罪者の足取りは、ヘントからブリュッセルブリュッセルからオランダの町フックへと続いていた。そしてこれから聖体大会のどさくさに紛れて、ロンドンに向かおうとしているはずだと予測されていた。恐らくは下級役人か、それに付き従う秘書のような顔をして。とはいえもちろん、ヴァランタンに確信などなかった。フランボウに対しては確信など誰も持てないのだ。
 この犯罪界の偉人フランボウが世間から姿を消して、もうずいぶんになる。彼が騒ぎを起こさなくなると、ロランが死んだあとそう言われたように、世界は静まりかえった。しかしその全盛期(もちろん最悪の時期という意味だ)においては、フランボウの存在感と国境を越えた話題性は、カイゼルにさえ匹敵した。毎朝のように各新聞は、フランボウがまたも大事件を巻き起こしたと報じて、彼がその前に起こした事件のあと、まんまと警察の手をくぐり抜けていたことを世間に知らせた。フランボウは体躯に恵まれた、力自慢のガスコーニュ人。とんでもない離れ業を演じたという逸話なら枚挙に暇がない。たとえばある予審判事を逆さまに引っ繰り返して、頭で身体を支えさせ、「判事のオツムをすっきりさせてやった」とか、リボリ通りで警官を両脇にひとりずつ抱えて走っていったとか。公平を期すために言っておけば、フランボウの人間離れした力が発揮されたのは、もっぱらそうした、たちが悪くはあっても流血沙汰にならない場面でのことだ。彼が行う犯罪は、主に独創的で大仕掛けな盗みだった。しかし盗みといってもそれらの事件は、道徳に対するまったく新しい罪と言っても過言でないほど斬新で、そのうちのどのひとつをとりあげても、お話が一本書けるだろう。たとえばロンドンで、あのグレート・タイローン牛乳会社を経営した人物もフランボウだった。牧場も、牛も、荷車も、牛乳もないのに、千件もの配達先を集めたあの会社だ。配達を頼んだ人たちにフランボウがしてやったのは、よその家の玄関先に置かれた他社の牛乳を自分の客の玄関先に置き換えることだけだった。またたとえば、説明のつかない、親密な手紙のやりとりをうら若い女性と続けたのもフランボウだった。その女性のところへ来る手紙はすべて途中で止められていたが、彼は自分の手紙を写真にとって顕微鏡のスライドに乗るほど小さくするという驚くべきトリックを使って、監視をすり抜けたのだった。また一方で、徹底的な無邪気さというものがフランボウの実験の多くには見受けられる。聞くところでは、かつて真夜中に、ある通りの番地をすべて塗り替えて、たったひとりの旅行社を罠へとおびき寄せたという。また移動式郵便ポストなるものを発明し、通りかかった人が、郵便為替を投函するのを当て込んで、それを閑静な住宅街の角に置いておいたのは疑いのないところだ。最後に、フランボウは驚くべきアクロバットを行う者として知られていた。でかい図体のくせに、バッタのように跳び上がり、木のてっぺんへと猿のように消えることができた。それゆえ偉大なるヴァランタンは、フランボウを追跡するにあたって、フランボウを見つけただけでは追跡は終わらないのだと肝に銘じていた。
 だが、そもそもどうやったらフランボウを見つけられるのか? 偉大なるヴァランタンの考えはそこで行き詰まっていた。
 フランボウが、どれだけ変装に巧みであっても、ごまかせないことがひとつある。並はずれた背の高さだ。だからヴァランタンは、背の高いリンゴ売りのおばさんや、背の高い擲弾兵(てきだんへい)や、そこそこに背の高い公爵夫人でも見掛けようものなら、その場でその人物を逮捕しかねなかった。けれど汽車の中に、フランボウが化けている可能性のある人物は誰もいなかった。もしこの中の誰かに化けられるなら、ラクダだって猫に化けられる。船で乗り合わせた人々については、大丈夫という確信がすでにあった。ハリッジからこっち、列車に乗りこんできた人間は間違いなくたったの六人。終点まで向かう途中の、背の低い鉄道職員がひとりに、ふた駅あとから乗ってきた、かなり小さい野菜売りの業者が三人、エセックスにある小さな町からロンドンへと出掛ける、とても小柄な未亡人がひとり、そしてやはりエセックスにある小さな村からロンドンへと向かう、とても小柄なローマ・カトリックの神父がひとり。最後のひとりについては、ヴァランタンは処置なしだなと、笑いを抑えるのに苦労した。その小柄な神父はあまりにも東部平原の田舎者だった。顔の丸さとしまりのなさはノーフォーク州の団子にひけをとらず、目のうつろさは北海のよう。何個か茶色い包みを持っていたが、どうしても全部をまとめておくことができなかった。やはり聖体大会が停滞した田舎から吸い上げているのは、大勢のこういう人間だ。目も見えず、身動きも取れない、まな板の上の鯉のような連中。ヴァランタンはフランス人らしく、徹底的な懐疑論者だったので、神父たちに対する愛などは持ち合わせていなかったけれども、哀れみを感じることならできた。それにこの神父に対してだったら、誰であっても憐憫の情を催したかもしれない。その神父はおんぼろの大きな傘を持っていて、絶え間なくそれを床に落としていた。往復切符の正しい向きも分かっていなさそうだ。客車のみんなに間抜け特有ののろくさいしゃべり方で、茶色い包みのひとつに「青い石のついた」銀製品が入っていますのでね、注意しなけりゃならないんですよと説明していた。絶妙にブレンドされたエセックスの田舎臭さと聖職者特有の木訥さに、ヴァランタンがにやにやし続けているうち、神父はトッテナムで茶色い包みを(どうにか)すべて持っておりていった、と思ったら、傘を忘れて戻ってきた。そのときに、ヴァランタンは高潔な人柄だったので、誰彼構わず銀製品の話をしないで、しっかり持っておくようにと神父に注意さえしてやった。しかし誰に話しかけるときにも、常に目を開いて他の人間を気にかけていたのだが。ヴァランタンはは六フィートを優に越える人間なら誰に対しても、しっかりと気を配っていた。金持ちも貧乏人も、男でも女でも。というのもフランボウの背が六フィート四インチあったからだ。
 また一方で、リヴァプール通りに降り立ったとき、ヴァランタンには、ここまでのところフランボウを見落としてはいないという絶対の自信があった。それからスコットランド・ヤードへ出向いて、自分の地位についての確認をし、必要がある場合に備えて、応援の手配をした。そのあとで新しいタバコに火を点けて、ロンドンの町をじっくり探ってみようと出て行った。ヴィクトリア駅を越えて、通りや広場を歩いていく途中、彼はふと歩みを止め、しばし佇んだ。そこは風変わりで静かな広場、つまりロンドンの見本のような場所で、それまでの喧噪が嘘のような静けさに包まれていた。辺りに並ぶ背の高い、平屋の家々は裕福なようにも人が住んでいないようにも見えた。広場の真ん中にある四角い植え込みが、緑色の太平洋に浮かぶ小島に劣らず寂れて見えた。四方の一角だけがまるで演壇のように他より抜きんでて高い。この屋根のラインは、ロンドンにありがちなハプニングの一例によって乱されていた――ソーホーから迷い出てきたかのようなレストランがあったのだ。その店はよくわからない魅力を持った建物で、小人像の植わった鉢がいくつか置かれ、レモンイエローと白のストライプ模様の長い日よけが下がっていた。高さは回りから群を抜き、通りから入り口扉に至る階段は、ロンドンにありがちな雑な作りで、非常階段が二階の窓にくっついてしまったくらい不格好だった。ヴァランタンは黄色と白の日よけの前で立ち止まったままタバコを吹かし、階段についてしばし考え込んだ。
 ところで、奇跡に関してもっとも信じ難いことは、それが起きるということ自体にある。たとえば空に浮かぶいくつかの雲が集まってこちらをじっと見つめる人間の目の形になること。たとえば不安な旅の途中で立ち現れた一本の木が、正確で精巧なクエスチョンマークを形作っていること。どちらも筆者がここ数日で目撃した例である。ネルソンが死んだのは、まさに勝利の瞬間においてだった。それからウィリアムズという男はまったく偶然にウィリアムソンという男を殺した。それはなんとなく子殺しの臭いがする。要するに、人生には、散文的な考えの人間には永久に捕らえられないような、ささやかな偶然の一致という要素があるのだ。ポーのパラドックスが巧みに表現しているように、経験的な知恵というのは予測不可能なことを考慮に入れるということなのである。
 アリスティード・ヴァランタンは根っからのフランス人だった。そしてフランス的知性というのは、唯一無二の知性なのである。ヴァランタンはけっして「思考機械」などではない。そもそも、そんな言葉は近代的な宿命論と唯物主義が生んだ頭の悪いフレーズに過ぎない。機械は所詮機械に過ぎず、思考ができるわけではない。彼は思考する人であり、同時に平凡な人でもあった。これまでの実績はみな、手品のように見えはしたけれども、それを生んできたのは積み重ねた論理、つまりすっきりとして奇異なところのないフランス流の思考だった。フランス人が世界を驚かせたのは、なんらかの逆説を持ちだしたからではなくて、わかりきったことを実行に移したからだ。フランス人はわかりきったことをとことん推し進めて――フランス革命へと辿り着いた。だがヴァランタンは理性というものをよく知っているからこそ、理性の限界というものもわきまえていた。ガソリンなしで車を走らせるなんて話をするのは、車のことを何も知らない人だけだ。そして、強固で絶対に確かな最初のとっかかりをもたずに推論をするなんて話ができるのも、理性について何も知らない人だけなのだ。いまのヴァランタンにはなんのとっかかりもなかった。そしてフランボウの足取りはハリッジで消えていた。もし奴がロンドンにいるのなら、どんな姿にでもなっているだろう。背の高い浮浪者に化けてウィンブルドン・コモン公園に立っているかもしれないし、背の高い乾杯係としてメトロポリタンホテルで音頭をとっているかもしれない。こんな風にまるっきり手がかりのないときであっても、ヴァランタンには彼一流の、ものの見方とやり方があった。
 こんなときに、ヴァランタンが頼りにしていたのは、予測不可能なことだった。こんなとき、つまり合理の道筋を辿っていけないとき、彼が冷静かつ慎重に辿るのは、不合理の道筋だ。まっとうな場所――銀行だとか、警察だとか、駅だとか、待ち合わせ場所だとか――へ行くのではなく、意図的に間違った場所へ足を向けたり、空き家の扉を片っ端から叩いて回ったり、行き止まりをすべて覗いてみたり、ごみが積み上がった通路を乗り越えたり、無駄に通りから外れることになる曲がり角をすべて曲がったりする。こうしたおかしなやり方が正しいことを、ヴァランタンはきっちりと論理立てて主張して、こう言った。手がかりがあるときには最悪のやり方だがね、しかし手がかりが何もないなら、こうやるのが一番なのだよ。なぜかと言えば、追跡する方の目に止まるようなものならなんであれ、逃げている方の目にだって止まったかもしれないからね。どこかから始めなければならない以上、別の人間が立ち止まったかもしれないまさにその場所から始める方がよろしいのだよ、と。店へと続く階段から感じる何か、レストランの静けさと奇妙さから感じる何か、そういったものによって、現実離れすることなどほとんどない想像力が刺激され、ヴァランタンは行き当たりばったりにぶつかってみることした。階段を上がり、窓のそばのテーブル席に着き、ブラックのコーヒーを注文した。
 日が昇ってからだいぶたっていたが、朝食はまだだった。他のテーブルにモーニングの食べ残しが置かれたままになっているのを見て、空腹を自覚した。そこでポーチド・エッグを追加で頼み、物思いに耽りつつ、スプーンでコーヒーに砂糖を入れていたが、そのあいだも考えるのはフランボウのことだ。これまでどうやって奴が逃げおおせて来たか、ヴァランタンは思い出していた。一度は爪切りばさみを使って逃げた。一度は火の出ている家を利用して逃げた。一度は切手を貼り忘れた手紙の支払いをしなくちゃいけないなんてことを言い訳にして逃げた。そして一度などは世界を滅ぼすかもしれない彗星だと言って人々が望遠鏡を覗いているあいだに逃げていった。ヴァランタンは自分の頭が決してフランボウに劣るとは考えていないし、実際にも劣っているわけではなかった。けれども、戦況が不利であるのはよく自覚していた。「犯罪者は創造的な芸術家。探偵は批評家であるに過ぎない」と言って、自嘲するような笑みを漏らした。それからコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。途端に、ぎょっとしてカップを下ろした。入っていたのは塩だった。
 ヴァランタンは白銀色の粉が入った容器に目を向けた。どう見ても砂糖の容器。シャンパンボトルにシャンパンが入っているくらい確実に、間違いようもなく砂糖の容器だ。なんだって店の人はこれに塩を入れたりしたのだろう。ほかにまともな容れ物がないか確認してみる。あった。たっぷり中身の詰まった塩の容器がふたつ。おそらくその塩の容器の中身にも、おかしなところがあるはずだ。ヴァランタンはそれを舐めてみた。砂糖だった。そこで、新たな関心を持って、レストランを見回してみた。ほかにも何か変わった出来事の痕跡がないかと思ったのだ。塩の容器に砂糖が入っていて砂糖の容器に塩が入っているような。白い壁紙が貼られた四方の壁の一面に黒い液体がぶちまけられたような染みがあることを除けば、店内はどこも気持ちよく、明るくて普通だった。ヴァランタンはベルを鳴らして、店員を呼んだ。
 店員が大急ぎでやって来た。縮れ毛で、朝早いせいか目が充血している。ヴァランタンは(冗談が分かる男だったので)店員に砂糖を舐めさせて、それがこの店の評判にふさわしいものであるかどうか確かめた。そうしたら店員はいきなりあくびをして目を醒ました。
「こちらでは、このような手の込んだ冗談を毎朝客にしかけているのかね?」ヴァランタンは訊ねた。「砂糖と塩を入れ替えるなんてことを、よく飽きもせずできるものだな」
 店員は嫌味の意味を飲み込むと、へどもどしながら、当店がわざとこのような真似をすることは決してありません。これは何かおかしな間違いだったに違いないのです、と弁解した。店員は砂糖の容器を取りあげて、それを見た。それから塩の容器を取りあげて、それを見た。その顔はどんどん途方に暮れていった。とうとう、いきなり奥へ引っ込むと、店長を連れて戻ってきた。店長もまた塩の容器と砂糖の容器を調べて、途方に暮れた顔をした。
 急に店員の方が、なまりを強めて、せき立てられるような調子で言った。
「あ、あし、お、おぼうんでずが、あのふだりぐみの神父んせいじゃねえでしょか?」
「二人組の神父というと?」
「ふだりぐみの神父でさ」店員は言った。「スープを壁にぶちまけやがったんで」
「スープを壁にぶちまけた?」きっとこれはイタリア特有の比喩表現に違いないと思いつつ、ヴァランタンは繰り返した。
「ええ、そうですとも」店員はカッカして言った。それから白い壁紙に残った暗い染みを指さした。「あそこの壁にぶちまけやがったんでさ」
 ヴァランタンが確認するような顔で店長の方を見ると、店長は助け船をだすように詳しい話を始めた。
「ええ、そうなんですよ」店長は言った。「まったくその通りでして。いや砂糖と塩のことと関係があるとは思いませんがね、今朝早く神父様がふたり来てコーヒーを飲んでいかれましたよ。店を開けてすぐですね。どちらもとても物静かで立派な方で。片方の方は払いを済ませて出て行かれました。もう片方の方は、要するにのんびりした方だったのか、荷物をまとめるのにやや時間がかかっておりました。しかしその方もとうとう立ち上がられました。ただ、表へ出て行く直前に、その方は悠々とカップを持ち上げまして、中身が半分ばかり残っていたんですが、そいつを壁に投げつけたんですよ。わたしは裏にいましたし、こいつもそうでした。ですので出て行ったときにはもうスープがぶちまけられたあとで、店は空っぽでした。何、損害ってほどのことはないんですがね、しかしとんでもなく厚顔無恥な話でさ。それから私は表で連中を捕まえようとしました。まあ、追いつくのは無理でしたけどね。そこの角をカースデアズ通りへ曲がっていくのが見えただけでしたよ」
 ヴァランタンは立ち上がると、帽子を被り、ステッキを手に持った。四方を闇に囲まれたような状態では、できるのは最初に出てきた妙な話が示す先を追いかけることだけだ。そしてこの話は十分に妙ではないか。払いを済ませて、勢い込んでドアから飛び出し、ヴァランタンは別の通りへと曲がっていった。
 運が良かったのは、このような興奮状態にあってなお、ヴァランタンの目が冷静かつ鋭敏であったことだ。ある店の前にある何かが、ちかりと光りでもしたかのように、目の端を掠めて過ぎていった。彼はよく見ようと店の前まで戻った。その店は大衆的な青果店で、たくさんの商品が店の前の露天スペースに陳列され、ものの名前と値段だけが書かれた値札が一緒に置かれていた。もっとも目立つ位置にあった仕切りふたつには、それぞれオレンジの山とナッツの山ができている。ナッツの山の上にはボール紙が載っていた。そこには太字の青いチョークでこう書いてあった。「最高級タンジェリンオレンジ ふたつで一ペニー」。オレンジの山の上にも同じように読みやすく正確な綴りで書かれたボール紙が置かれていた。「高品質ブラジル産ナッツ 四ペ二ーで一ポンド」。ムッシュー・ヴァランタンはこれらふたつの値札を見て、こうした、いたく微妙な冗談を前にも見たことがある気がした。それもつい最近だ。ヴァランタンは、赤ら顔をした青果店の親父が、かなりむっつりと通りの左右を見回しているところに声をかけて、値札が間違っていることを教えてやった。親父は何も言わず、とげとげしい動作でそれを入れ替えた。ヴァランタンは、ステッキ一本で優雅に身体を支えて、その店を念入りに観察し続けた。とうとう彼は言った。「つまらないことを言いだしてすまないが、実験心理学と観念連合に関する問題につきあってもらえないかね」
 赤ら顔をした親父が忌々しげににらみ返してくるのもお構いなしで、ヴァランタンはにこやかなまま、ステッキをブラブラさせて、「なぜ」と続けた。「なぜ店頭で間違った位置に置かれていたふたつの値札が、休暇でロンドンにやってきたシャベル帽みたいなのだろう? つまり、もっとわかりやすく言えば、オレンジの値札がついたナッツというイマージュと、背の高い神父と低い神父の二人組というイマージュが結びつくのはなぜなのかということだよ」
 店の親父の目が、かたつむりかと思うほどに飛び出した。一瞬、親父は本当に目の前の余所者に飛びかかっていくのではないかと思われた。やがて親父は忌々しそうに、ぼそぼそと言った。「俺あ、おめえがあいつらとどんな関係なのかしらねえが、もし奴らの仲間なんだったら、言っといてくんな、てめえらが何者だろうと、またうちのリンゴを引っ繰り返しやがったら、てめえらの腐れたドタマ、かち割ってやるってな。」
「なんだって?」ヴァランタンは大いに同情した。「リンゴを引っ繰り返したのかね?」
「片方の神父がやりがやったんだ」カッカしている親父は言った。「通り中に転がしていきやがった。ふん捕めえてやりたかったが、リンゴを拾わなくちゃならねえだろ」
「その人たちはどっちへ行ったのかね?」ヴァランタンは訊ねた。「左側にあるふたつめの角を入って、十字路を抜けて行きやがったよ」と相手は即答した。
「邪魔したね」ヴァランタンは妖精のような足取りでその場を後にした。それから、ふたつめの広場まで行くと通りの向かいに警官を見つけたので言った。「巡査、これは急を要する話なんだが、シャベル帽を被った二人組の神父を見なかったかね」
 警官はうんざりしたような苦笑を見せて、「見掛けましたよ、私の見たところ、片方は酔ってましたな。道の真ん中に立って、その酔っぱらいは……」
「どっちへ行ったのかね?」ヴァランタンは皆まで言わせなかった。
「あっちで黄色いバスに乗りました」と警官は答えた「ハムステッド行のやつです」
 ヴァランタンは身分証を見せて、「応援をふたり呼んでくれたまえ。連中を追いかけるのだ」と早口に言うと、猛烈な勢いで道を渡っていた。あまりの勢いに、どんくさい警官もすぐさま指示に従って飛んでいった。一分半後には、渡った先の道路で、警部補ひとりと私服姿の男ひとりが、ヴァランタンに追いついた。
「それで」と警部補が口を開いた。「いったいこれはどういう……」
 ヴァランタンはいきなりステッキで指し示し、「話はバスに乗ってからだ」と言って、混み合う人通りを押しのけすり抜けていく。三人がみな息を切らせて、黄色い乗り物の二階座席に身を沈めたあとで、警部補が言った。「タクシーを捕まえた方が、四倍は早く移動できますよ」
「確かにそうだ」ヴァランタンは動じずに答えた。「ただし、行き先がわかっているのならだがね」
「あの、どちらへ向かっているので?」警部補がまじまじとヴァランタンを見つめる。
 ヴァランタンは顔をしかめてタバコを吹かし、口から離すと言った。「相手が何をするつもりなのかわかっているなら、先回りをするに限る。だが、もし相手が何をするつもりなのか推測したいのなら、後ろからついていかなくてはならぬのだよ。相手がぶらつくならぶらつき、立ち止まるなら立ち止まる。同じようにゆっくりと移動する。そうすれば相手が見たものを見ることができるし、相手がしたのと同じ行動もできる。いまやれることといって、せいぜいが妙なものを見落とさないようにするだけだ」
「妙なものってのは、どんなもんなんですかね?」警部補が訊いた。
「妙なものでさえあれば、どんなものでも構わんよ」ヴァランタンは答えると、また頑なに黙り込んでしまった。
 黄色いバスはのんびりと北へ進んだ。何時間もかかっているように思われた。偉大なる名探偵はまったく説明を加えようとはしなかった。連れのふたりは何も言わなかったけれども、おそらくヴァランタンの任務について、不審の念を募らせていたことだろう。また彼らは何も言わなかったけれども、空腹感も募らせていたことだろう。いつも昼休みを取っている時間は、とっくに過ぎていたのだから。そしてロンドン北部の郊外を通る長い道は長い上にも長々と伸びていくように思われ、まるで悪魔の望遠鏡だった。それはとうとう宇宙の果てまで辿り着いたと思ったら、まだタフネルパークの入り口までしか来ていなかったのがわかるということを永遠に繰り返す旅だ。ロンドンは遠ざかり、代わりに姿を現したのは薄汚い居酒屋とわびしい雑木林。それからどういうわけか再び、華やかな目抜き通りときらびやかなホテルなロンドンが戻ってきた。まるで十三の業罪都市が互いにすこしだけ轡を並べる中を、通り抜けていくかのようだった。だが冬の黄昏が、バス前方の道に迫って来てもまだ、パリから来た名探偵は黙りこんで、あたりに気をつけ、両脇を流れていく通りの家並みに目をやっていた。カムデンタウンを通り過ぎる頃には、連れの警官ふたりは眠りに落ちかけていた。寝ていなかったにしても、いきなり立ち上がったヴァランタンがふたりの肩を叩き、御者に馬車を止めるよう叫んだとき、跳び上がらんばかりに驚いたのは確かだ。
 ばたばたと馬車から降りては見たものの、ふたりはなんで降りるのかわかっていなかった。理由を知ろうと辺りを見回して、見つけたのは得意満面に通りの左側にある窓を指さすヴァランタンの姿だった。それは大きな窓で、金ぴかで豪華なホテルの、長く広がるファサードの一部だった。その店は豪華な晩餐も出していて、「レストラン」の看板も出ている。その窓は、通りに面したホテル正面の他の窓と同じく、模様を入れた曇りガラスでできていたが、中心部分には、大きくて黒い亀裂が走り、まるで氷の中に星が入っているようだった。
「とうとう手がかりがあった」ヴァランタンは叫んで、ステッキを振り回した。「割れた窓のある建物だ」
「窓がどうしたんです? 手がかりってなんですか?」警部補が訊ねた。「なんだってこれが、連中と関係のある証拠だってことになるんですか?」
 ヴァランタンはあやうく竹製のステッキをへし折りそうなほど頭に来た。
「証拠! 何を言っているんだ! きみは証拠なんて探しているのかね! まったくもって、それはもちろん間違いなく、この手がかりと連中にはなんの関係もないだろうさ。だか他に何ができる? 万にひとつの可能性にすがって追跡を続けるか、家に帰って寝るかのふたつにひとつだということもわからんのかね?」と、ヴァランタンは怒鳴りつけると、足踏みならしてレストランへと入っていった。あとのふたりもそれに続き、三人はすぐ昼食にありつくべく、小さなテーブルに腰をおろすと、星形にひびの入ったガラスを今度は内側から眺めてみた。そうしてみても、これといって役に立つようなことはなかった。
「そこの窓、壊れているみたいだね」ヴァランタンは会計のとき、店員に言ってみた。
「ええそうなんですよ」と店員は答えながら、下を見たまま忙しそうに金を数えていた。そこへヴァランタンは何も言わず、かなりのチップを差し出した。店員は背筋を伸ばした。穏やかではあっても隠しようもなく嬉しそうな表情を顔に浮かべて。
「ええそうなんですよ」店員は言った。「実に妙な話なんですが」
「そうかい? 何があったんだね?」ヴァランタンは興味丸出しに訊いた。
「はい、黒い服を着た二人連れの紳士がいらっしゃいまして」と店員は言った。「どちらもいまここらに大勢来ている外国の神父様で、お値段の手頃な料理を少々ご注文になり、お静かに召し上がっておりました。お食事を済ませると片方の方は支払いをしてお帰りになりました。お連れの方が出て行かれようとしたときに、私がお金にもう一度目をやりますと、頂いた料金が多すぎたのです。三倍も頂いておりました。『あの』と私は扉のところにいたお客様に声をかけました。『多く頂きすぎました』『ほうほう、そうでしたかな』とそのお客様は仰いました。ひどく落ち着き払って。『ええ、そうなんです』私は伝票を見せました。その、意味のわからない伝票をね」
「意味がわからないというと?」ヴァランタンが訊ねた。
「それが、私は絶対確実にお代を四シリングと書いたんですよ。ところがなぜか伝票には十四シリングと書かれていたんです。それはもうはっきりと」
「そんなことが」とヴァランタンは声を上げた。身体をゆっくりと揺らしながら。しかし目は鋭く光っていた。「それでどうなったんです?」
「扉のところにいたお客様は、顔色ひとつ変えることなく、こう仰いました。『会計をややこしくてしてすまないんですがね、窓の分込みになっていましてね』。私は申しました。『窓の分と仰いますと?』『これから壊すんですわ』と仰ると、そのお客様は持っていた傘で例の窓を叩き割ったのです」
 三人の警察官はえっと叫んだ。ヴァランタンは小声で言った。「我々が追っているのはどこかから逃げ出した狂人なのか」店員は馬鹿げた話の残りを続けた。
「あまりにも意味がわからなかったものですから呆れてしまって、すぐには何ひとつできませんでした。その人は店を出て、お連れの方に追いつかれました。ちょうど、あそこの角を曲がったところで。そうしてから、猛烈な勢いでブロック通り走っていってしまったので、捕まえることはできませんでした。そこのバーの角を曲がるところまでは追いかけたんですけどね」
「ブロック通りだ」と、ヴァランタンは言って、件の通りへと飛び出していった。その勢いは追跡している奇妙なふたり組に勝るとも劣らなかった。
 警官たちの走り抜ける通りはレンガが剥き出しでトンネルめいていた。灯りはほとんどなく、窓すらほとんどなかった。あらゆるものと場所の背後にそびえる虚無から作られたような通りだ。夕闇が深まっていく。もはやロンドンの警察官たちにも自分たちがどこへ向かっているのか、簡単には推測できない。だがヴァランタンには、このままいけばハンプステッド・ヒースのどこかにぶつかるはずだという、かなり強い確信があった。唐突に、ある建物の窓にガス灯を点いて、龕灯(がんどう)めいた姿を、青黒い夕闇の中に浮かべだ。それを見てヴァランタンはちょっと立ち止まった。前にあるのは、派手な構えの駄菓子屋だ。一瞬だけ躊躇してから、ヴァランタンはその店へと入っていった。そしてさまざまなどぎつい色の菓子の真ん中に大まじめな顔で立ち、気が進まないのを押し殺してチョコレートシガーを十三本買った。あきらかに話のとっかかりを掴むためだった。しかしそんなことをする必要はなかったのだ。
 レジにいた、やせこけて老け顔の若い女性はヴァランタンの優雅な様子にごく当たり前の興味をひかれていたが、彼の後ろにある扉が、警察官たちの青い制服でふさがれているのを見ると、目つきがはっきりとした。
「あら」と彼女は言った。「紙袋のことで来たなら、もう送っちまいましたよ」
「紙袋というと?」ヴァランタンは繰り返した。今度はヴァランタンの方が興味をひかれる番だった。
「あの紳士が置いてった奴ですよ――神父様がね」
「すまないが」ヴァランタンは身を乗り出した。初めて焦りが顔に出ていた。「何があったのか、ぜひ正確なところを教えてくれたまえ」
「正確なところって、そうねえ」と女は、すこし胡散臭そうに言った。「その神父さまたちがやって来たのは三十分くらい前だったよ。ペパーミントを買ってちょっと話をしていった。それからヒースの方へ向かったんだけど、神父の片方が走って戻ってきてこう言うんだよ、『紙袋の忘れ物がありませんでしたかね?』。でさ、あっちこっち探してみたけど出て来なくって、神父さんは『まあ仕方ありませんね、もし出てきたらこの住所まで送ってもらえませんかねえ」と頼んできてね、住所と手間賃に一シリングを置いていったのさ。そして案の定、全部見たはずだったのに、あとから茶色い紙袋が出てきてね、言われた住所宛に送っておいたんだよ。もう住所は覚えていないけど、ウェストミンスターのどっかだったね。けどなんかすごく大事なものみたいだったから、あんたたちはそれを探しに来たんじゃないかって思ったんだよ」
「なるほど」ヴァランタンは短く言った。「ハンプステッドヒースというのはここから近いのかね?」
「真っ直ぐ歩いて十五分もすると」と女は言った。「ヒースに出るよ」
 ヴァランタンは店を飛び出すと走り始めた。連れの警察官たちはしぶしぶそのあとを追った。
 一行は、通っていく道があまりにも狭く、またあまりにも影がしっかりと辺りを覆って暗かったので、不意に遮るもののない広場と広大な空が目の前に現れたときには酷く驚いた。意外にも、空はまだ明るく、景色はまだはっきりとしていたのだ。青緑色の完璧な円を描く天蓋が金色の光を浸食していくその回りを、影になった木々と紺色の遠景が取り囲む。濃くなりつつある緑色の深さは、ようやく星の輝きを、ひとつかふたつ見分けられるに足る程度。日の光の名残はハンプステッドと、ヴェール・オブ・ヒースという有名な盆地の端を黄金色に輝かせていた。あたりを散歩する休日の行楽客たちの姿がまだちらほらと残っている。何組かのふたり組がだらしなくベンチに座っている。遠くのあちこちで、女の子がまだブランコに乗って、きゃあきゃあ声を上げている。天国の栄光が、人々のこの上なき俗悪さを取り囲んで隠していた。そして斜面に立って、丘の向こうを見やったところで、ヴァランタンは探していたものを見出したのだった。
 遠くの方に休憩中の黒いグループがいくつもある中で、とりわけ黒い、休憩しているわけではない組があった――僧服姿の二人組だ。虫のように小さく見えたけれども、ヴァランタンにはふたりのうちの片方が、相手よりもかなり小さいのが見て取れた。相手の方は学者のように背を丸め、目立たない振る舞いをしていたけれども、その男の背が優に六フィートを超えているのは見て取れた。ヴァランタンは奥歯を噛みしめて前進した。せかせかとステッキを振り回しながら。かなり距離を縮めて、ふたりの黒い人物が、巨大な顕微鏡で見るように大きくなってくるより早く、彼は他のことに気がついた。それはおどろくべきことで、それなのになぜか予想してもいたことだった。背の高い神父の方が何者であれ、背の低い方の神父が何者であるのかは疑いようがない。あれはハリッジの列車で乗り合わせたエセックスの神父、茶色い紙袋のことで忠告してやった、あのずんぐりむっくりだ。
 ついにことここに至り、ようやく、そして十分合理的に、すべては収まるところに収まった。今朝の調査で、エセックスから来たブラウン神父とかいう人物が、相当の価値を有する遺物であるサファイアのついた銀の十字架を、聖体大会で海外の神父に見せるために運んでいるという話は知っていた。この十字架は確かに「青い石のついた銀製品」だ。そしてブラウン神父とは確かにあの列車にいた世間知らずのちびだったのだ。ところで、ヴァランタンが目を留めたものに、フランボウもまた目を留めていたという事実については、何も不思議なことはなかった。つまりフランボウもすべてに目を留めていたのだ。またフランボウがサファイヤをあしらった十字架の話を聞き及んで、そいつを盗んでやるかと考えるのも、何も不思議なことはなかった。それは自然界の歴史すべての中でも、もっとも自然ななりゆきなのだから。そして、フランボウが傘と紙袋を抱えたその男みたいな愚かな羊を思いのままに操ったところで、不思議なことは何もないのは、ほかの何にもまして確実だった。その男は、誰にでも意のままに操られて北極にだって連れて行かれそうなタイプだ。フランボウほどの役者が、神父のお仲間めいた扮装で、ハンプステッド・ヒースまで神父をおびき出せたとしても、驚くにはあたらない。確実にこの程度までは、今回の事件が明らかになったように思われた。そしてヴァランタンは、一方で神父の無力を哀れみつつも、もう一方で、フランボウが、そんなにも間抜けなカモに対して、へつらっている姿には、ほとんど軽蔑を感じた。しかしここまでに起きたすべてのことに、つまりこの勝利へと導いてくれたすべてのことに思い致したとき、ヴァランタンは首をかしげた。その中には欠片も平仄の合わない、つまり理由のわからないことがあったのだ。エセックスの神父からサファイヤをあしらった銀の十字架を盗み取るのと、壁にスープをぶちまけることに、なんの関係がある? ナッツをオレンジと呼ぶことや、窓の代金を先に払ってからそれを壊すこともそうだ。ヴァランタンは追跡劇のゴールまでやって来た。しかしどうしてか、中間の部分を飛ばしてしまっていた。これまで彼が失敗したとき(そんなことは滅多にないが)には、手がかりを掴みながらも、犯人を逃すことがほとんどだった。しかし今回は犯人を捕らえながら、なお手がかりの意味が理解できていないのだ。
 警察官たちが追ってきたふたり組はのろのろとした歩みで、丘の緑色をした巨大な外郭を黒い蠅のように渡っていく。彼らは明らかに会話に熱中していて、どこへ向かおうとしているのかということもおそらくは意識してはいまい。しかし間違いなく、向かう先にあるのはヒースの中でもとりわけ寂しく、ひとけのない高地なのだった。距離を詰めるにつれて、追跡者たちは鹿狩りをするときのようなみっともない姿勢を取らなくてはならなかった。木立の背後にしゃがみこんだり、草むらの中に腹ばいで伏せったり。こうしたぶざまな苦心のおかげで、狩人たちは獲物への距離をさらに詰め、囁き声で交わされる会話が聞こえるまでに近付いた。しかし聞き取れるのは高く子供じみた声が頻繁に繰り返す「理性」という単語くらい。一度などは、地面の予想外のくぼみと深い藪に囚われて、警察官たちは追っている相手をほとんど見失った。足跡を見いだせないままに、いらだたしい十分が過ぎて、ようやく辿り着いたのは、丘が作る大きな半球の端で、そこからは雄大で荒涼とした日没の場面が見渡せた。この堂々としてはいても、うち捨てられた場所に生えた一本の木の下に、いまにも崩れそうな木でできた古いベンチがあった。このベンチに腰掛けて、ふたりの神父はまだ真面目な議論を続けていた。豪華な緑色と華やかな金色はなお暗くなりつつある地平線にまつわりついていた。が、天球はその色をゆっくりと青緑から紺色へと変えつつあり、星々の姿は固い宝石のようで、ますますはっきりとしてきた。音を立てないまま、仲間の警察官に指示を出して、ヴァランタンはどうにか枝振りの良い大木の後ろまで這うように進み、気配すらさせないまま立ち上がって初めて、おかしなふたり組の話を聞いたのだった。
 一分半ばかり耳を傾けたあと、ヴァランタンは恐ろしい疑惑に囚われた。もしやイギリスの警察官ふたりを引っぱって、夜のヒースの荒れ地まで来たのは、アザミの中にイチジクを求めるほど、常識外れな大間違いだったのではないか。というのも、ふたりの神父の話しぶりはまさに神父そのものだったからだ。敬虔で、学識豊かに、ゆったりとしたムードで、神学の実に荒唐無稽な謎を話し合っている。小柄なエセックスの神父はより素朴に話し、丸い顔を輝きを増す星々の方へ向けている。相手は話ながら顔をうつむけていた。まるで自分には星々を見つめる資格がないかのように。だがこれ以上に罪のない聖職者同士の会話などイタリアの白い修道院でもスペインの黒い大聖堂でも、聞かれたためしはなかっただろう。
 ヴァランタンに最初に聞こえたのは、ブラウン神父の言葉の尻尾のところで、それはこんな風に終わっていた。「……というのが、中世の人々が天は不滅なりと言うときに、本当に言いたかったことなのですよ」
 背の高い方の神父が俯いた首でさらに頷き、口を開いた。
「ええ、そうですとも。現代の不信心者は自らの理性を頼みにしています。しかし誰が、あの何百万もの星を見て、なお我々の上には、我々の理性がまったく非合理的であるような素晴らしい世界があるはずだと感ぜずにいられましょう?」
「それは違いますな」と背の低い神父。「理性は常に合理的です。たとえ地獄の果て、つまり呪われたものの境にあろうともです。世間の皆さんは教会が理性を鈍らせていると怒っておられるのは知っておりますがね、実はまったく反対の話でしてな。この地上で、教会のみが理性を本当に至高のものにいたしております。この地上で、教会のみが主自らさえ理性によって縛られると主張いたしております」
 相手の神父は厳粛な面持ちできらめく空を見上げて言った。
「ですが、どうしてわかりますか? この無限の宇宙で――」
「無限なのは物理的な意味においてだけでしてな」と、小柄な神父は言って、腰をおろしたまま急に向きを変えた。「真理の法則から逃げきれるほどには、宇宙も広くないんですわ」
 ヴァランタンは隠れている木の陰で爪を噛みながら、溜め込んだ怒りを燃やしていた。彼にはイギリス人の警察官たちが漏らす忍び笑いが聞こえてくる気がした。馬鹿げた推測に基づいて、こんなところまで連れてきたあげく、収穫は穏やかな老人たちが交わす形而上学に関するお喋りを聞くことだけだったのだから。腹立ちの余り、背の高い方の聖職者が言った、背の低い方に劣らず複雑な返答を聞き逃した。そしてもう一度耳をそちらに向けたとき、話していたのはまたしてもブラウン神父だった。
「理性と正しさはこの上なく遠い、この上なく孤独な星にまでも及んでおりますよ。あの星々をごらんなさい。それぞれがダイヤモンドのようにもサファイアのようにも見えませんかな? それはお望みでしたら、どんなにありえない植物学のことでも地理学のことでも想像されて構いません。光輝く葉をつけた、堅牢な森のことを考えたり。月が青い月、つまりひとつの巨大なサファイアであると考えたりね。ですが、そうしたおかしな天文学によって、日ごろの振る舞いにおける理性と正しさがいささかでも変わるなどと思ってはいけませんね。オパールでできた平原の上であろうと、真珠から作った崖の下であろうと、なおもそこには警告の看板がありましょうな。『汝、盗むことなかれ』という看板が」
 ヴァランタンはちょうど、じっとうずくまった姿勢を止めて、できるだけこっそりとその場を立ち去ろうとしていた。これまでに味わったことのないほど情けない気分に耐えられなくなったのだ。だが背の高い方の神父がぐっと黙りこんでいる様子が、どうにも気になってもうすこしその場にとどまることにした。帰るのは、せめて彼が口を開いてからでも遅くはない。やがて背の高い神父は口を開いくと、そっけなく言った。頭を垂れ、手を膝に置いたまま。
「そうですね、思うにあの別世界なら、恐らくは我々の理性など及びもつかないことでしょう。天の不思議というのは測りしれませんので。人間であるわたしは頭を垂れるばかりです」
 それから、まだ眉をひそめたまま、態度や声色をいささかも変えることなしに、さらに言った。
「サファイヤの十字架を渡していただきたい。お願いできますか? ここにはほかに誰もいませんし、私はあなたをばらばらにすることだってできますよ。わら人形を引きちぎるみたいにね」
 声と態度がまったく変わらないことで、話の中身の驚くべき変貌に不思議な威しが加わった。だが聖遺物の護衛者は、首をコンパスのもっとも細かい一区画分程度、回しただけのようだった。依然としてそのぼんやりした顔を星の方に向けているようだった。おそらく状況を理解できていないのだ。さもなければ、理解できてはいても、恐怖に腰を抜かしてしまったのだ。
「そうです」と言ったのは背の高い神父だ。低い声もじっとした姿勢も変わらない。「そうです、私はフランボウなんです」
 それから間があって、彼は言った。
「さあ、十字架を出してください」
「無理ですねえ」と言う相手の神父の声には、奇妙なところがあった。
 フランボウはいきなり聖職者面をすべて振り捨てた。大泥棒はベンチにふんぞり返り、低い声で笑い続けた。
「無理ですねえ、か」と、フランボウは言った。「どうしてもくれないってんだな、誇り高き司教様よ。どうしてもくれないってんだな、ちびで禁欲主義のお間抜けさんよ。なんであんたがくれないのか言ってやろうか? 俺の方で、とっくに十字架をいただいていて、もう胸ポケットに入れてあるからだよ」
 エセックスの小柄な男はぼんやりしているように見える顔を夕闇へと向け、そして言った。「重役秘書」めいた熱意をすこしだけ滲ませて。
「その、間違いではありませんかねえ」
 フランボウは喜びの声を上げた。
「本当に、あんたは三文芝居の役者だな。ああ、アホめ、間違いなんてありゃしない。俺には包みの偽物を用意するだけの知恵があるんだ。それでだ、マイフレンド、あんたはその偽物を持ち、俺は本物を手に入れた。使い古された手口だよ、ブラウン神父――そりゃあ使い古された手口だよ」
「そうですねえ」とブラウン神父は言って、髪をかき上げた。やはり不思議にぼんやりとしたやり方で。「私も以前に聞いたことがありますよ」
 犯罪の巨人は小柄な田舎の神父の方へ身体を乗り出した。にわかに興味をそそられて。
「聞いたことがあるだって?」フランボウは訊ねた。「どこで?」
「そうですねえ、もちろん相手の名前は出せませんけどね」とブラウン神父は淡々と言った。「その方は懺悔をしに来た人でしたよ。その方は羽振り良くお暮らしでしたが、おおよそ二十年ものあいだ、生活の糧を稼ぐ手段は茶色い紙包みの偽物だけだったんですよ。ですからね、その、あなたのことを怪しみ始めたとき、すぐにその方のやり口を思い出したんですわ」
「怪しんだだって?」フランボウは真顔になって繰り返した。「本当に俺を疑う頭があったのかい、ただあんたをさびれた荒れ地まで連れてきたってだけで?」
「いやいや」ブラウン神父は詫びるような口調で言った。「あのですね、あなたを怪しみだしたのは、最初にお目にかかったときなんですよ。その袖の上の出っ張りあたりに、あなたがたはトゲのついたブレスレットを隠しておくんでしたよね」
「まってくれ」フランボウは叫んだ。「なんでトゲ付きブレスレットの話まで知ってるんだよ?」
「その、もちろん信徒の方から聞いたのですよ」ブラウン神父は言って、眉毛を偉そうに持ち上げてみせた。「ハートルプールで神父見習いをしていたときに、トゲ付きのブレスレットをした方が三人おりましてねえ。それで、一目見てあなたを怪しいと思いましたのでね、その、どうにかして十字架が安全に運ばれるように手を打ったのです。申し訳ありませんがね、私はあなたを監視していたんですわ。それでとうとうあなたが紙包みを取り替えるところを見たものですから、その、もういちど取り替え直しておきました。そして本物の紙袋は置いてきました」
「置いてきただって?」フランボウは繰り返した。はじめてその声に浮かれた調子以外のものが混じった。
「ええ、こういう具合だったのです」小柄な神父は言った。これまで通り淡々とした口調で。「私はあのお菓子屋さんに戻って、自分が紙包みを忘れていかなかったと訊ねたのですね。それから紙包みが出てきたときに備えて送り先を教えました。ええ、忘れてなかったのは知ってましたよ。ですが、もう一度店を出るときに、私は紙包みを置いていったのです。ですからお店の人は大事な紙包みを抱えて私を追いかけてくる代わりに、ウェストミンスターにいる私の仲間のところへ包みを送ってくれたのです」それから神父はいささか悲しげに付け加えた。「わたしがこの手を教わったのも、先程とは別の人ですが、やはりハートルプールの迷える者からでしてね。その人は駅でハンドバッグを盗んでは、このやり方で運んでいたんですわ。ですが、その人もいまでは僧院にいらっしゃいます。ああ、人は知るようになるものなのです。おわかりでしょうが」と神父は付け足した。何か必死で言い訳しているみたいに、もういちど自分の頭を撫でながら。「私どもは神父でいるしかないのです。人々は色々な話をしにやって来ます」
 フランボウは内ポケットから茶色い紙包みを引っ張り出して、ばらばらに引きちぎった。中から出てきたのは紙と棒状の鉛だけだった。彼は大袈裟な身振りで立ち上がり、叫んだ。
「信じられねえ。あんたみたいな田舎者にこんなことができるなんて。まだあれを持っているんだろ。もし出さないって言うんなら――そう、他には人なんていないんだし、無理矢理にでも頂くぞ!」
「それは無理ですな」にべもなく言って、ブラウン神父も立ち上がった。無理矢理持って行くなんてことはできませんよ。まず、本当にもう手元にないのです。それから、人なら他にもいるのです」
 フランボウは一歩足を踏み出したところで止まった。
「あの木の後ろに」ブラウン神父は言って、指を指した。「お二方の屈強な警察官と現在世界一の名探偵がいらっしゃいます。どうしてあの方々がここにやって来たのか、わかりませんか? その、私がね、連れてきたのですよ、ええそうですとも! どうやったのかですって? ええ、知りたければお教えいたしましょう。おかげさまで、犯罪者の中で働いておりますと、二十ものああいうようなことを知るようになるのですね。その、あなたがね、盗賊だという確信はありませんでしたのでね、聖職者仲間に汚名を着せるような真似をしようとは全く思いませんでした。それで私はあなたを試すだけは試して、あなたの正体を見極めることにしたんですわ。ふつう、人というものは、コーヒーの中に塩が入っていれば、ちょっとした騒ぎを起こすものでしてな。もしそんなときに黙っているなら、黙っているだけの理由があるものです。私は砂糖と塩を入れ替えました。けれども、あなたは黙っていた。ふつう、人というものは、料金が三倍も多く請求されていたら、文句を言うものです。もしそのまま払うなら、目立たずにに済ましたい動機があるものです。私は伝票を書き換えました。けれども、あなたはそのまま払いました」
 世界はフランボウが虎のように飛びかかるのを待っているみたいだった。しかし彼はじっとしていた。まるで呪文でもかけられたみたいに。この上ない好奇心でその場に縛り付けられていたのだ。
「それでその、」ブラウン神父は続けた。ぎこちなくも明解に。「あなたが警察への手がかりを残そうとしない以上、当然誰かがそれを残さなくてはなりませんからね。私たちがどこに立ち寄ったときも、私は意識して私たちが今日一日話題になり続けそうなことをしておいたんですわ。あまり実害があることはしてませんがね――せいぜい壁にスープをぶちまたり、リンゴを引っ繰り返したり、窓を割ったりくらいなものです。ですが十字架を守ることはできました。十字架というのはいつでも守られるものですな。もう今頃はウェストミンスター寺院に着いてますよ。あなたがどうしてドンキーズ・ホイッスルを使って、そうなるのを阻まなかったのか、ちょっと解せませんけどねえ」
「何を使うだって?」フランボウは訊ねた。
「聞いたことがありませんでしたか。それは何より」神父は言ってから、顔をしかめてみせた。「穢らわしいやり口ですよ。私にはわかりますよ、あなたは善人すぎて、あれを使うなんてことはできやしません。もしやられていたら、私ではスポッツを使ったとしても、対抗できなかったでしょうな。そこまで足が強くないので」
「あんたいったいなんの話をしてるんだい?」フランボウは訊ねた。
「おっと、スポッツの話は知っていると思ってましたよ」ブラウン神父は言った。嬉しい驚きだと言いたげの顔で。「ああ、ではあなたはまだそこまで悪の道に迷われているわけではないのですな!」
「なんだってあんた、そんな糞恐ろしいもんの話を知ってるんだよ?」フランボウは叫んだ。
 微笑の影が、相手の聖職者の丸くて無邪気な顔を横切った。
「ああ、禁欲主義のお間抜けさんだからですよ、おそらくは。こう考えたことはありませんかねえ、人間が犯す実際の罪の数々に耳を傾けることくらいしかしていない人間が、人間の悪についてまったく気付かないなんてことはまずないと。まあ実を言えば、あなたが偽物の神父であると知れたのは、私の仕事の別の部分のお陰だったわけなのですけれども」
「なんのおかげだって?」フランボウは訊ねた。ほとんど息を飲んで。
「あなたは理性を攻撃なされた」ブラウン神父は言った。「それは悪しき神学なんですわ」
 ちょうどブラウン神父が、向きを変えて荷物をまとめにかかったところで、三人の警察官が黄昏に染まった木の下から現れた。フランボウは芸術家でありまたスポーツマンでもあった。彼は一歩さがりヴァランタンに深々とお辞儀をしてみせた。
「わたしにお辞儀など無用だよ、モナミ」ヴァランタンは言った。銀色の輝きをまといながら。「さあ一緒に頭を下げようではないか、我々の先生にね」
 そしてふたりは立ったまま帽子を脱いだ。一方、エセックスの小柄な神父は目をぱちくりさせながら、傘を探していたのだった。

(おしまい)

 使用した原典テキストhttp://en.wikisource.org/wiki/The_Innocence_of_Father_Brown/The_Blue_Cross
 補足トリビア:本編の初出については、「名探偵事典 海外編」(郷原宏 東京書籍)53ページに、「1910年09月「ストーリー・テラー」誌にて青い十字架が発表される。」とある。(追記2015/09/21その後、このトリビアが不正確であることがわかった。→ブラウン神父の初出 - U´Å`U



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