へたっぴ訳「神秘の庭」

 神秘の庭
G・K・チェスタートン 著    
gkmond 訳



 アリスティード・ヴァランタン、パリ警視庁長官は、自宅で開く夕食会の時間に帰宅が間に合わず、彼に先立って招待客の方が到着し始めていた。それがさしたる問題にもならずに済んでいたのは、万事任された使用人のイヴァンがうまく対応したおかげだった。イヴァンは顔に火傷痕のある老人で、顔の色は白髪交じりの口髭とほとんど変わらないほど灰色だった。彼がテーブルに座って、ずっと陣取っている正面玄関は、さまざまな武器に飾り立てられていた。ヴァランタンの屋敷はおそらく家主同様に独特で、家主に負けぬほど世に知られてもいた。高い壁と、セーヌ川に覆い被さらんばかりに育ったポプラの木々とに囲まれた古い邸宅だ。しかしその建築様式の風変わりな――そしておそらくは警備面で有益な――特徴は、外部への出口が、イヴァンとさまざまな武器によって守りを固めた、この正面玄関しかないというところにあった。屋敷の庭は広く、手入れが行き届いており、屋敷から庭へと繋がる出口はたくさんあったが、庭から敷地の外へと繋がる出口はひとつもない。そして庭の回りに巡らされた高い壁は、つるつるしてよじ登ることができない上に、てっぺんには特製の釘まで備え付けられていた。何百人という犯罪者から殺してやると罵られてきた男が、思案に耽るにはおそらく悪くない庭だ。
 イヴァンが招待客たちに説明したとおり、ヴァランタンからは、まだ十分ほどかかる旨の電話が入っていた。実のところ、ヴァランタンは数件の処刑と、それに伴う不快な仕事に関する最後の詰めを、あれこれとしていたのだった。こうした務めは彼にとって心底嫌なものであったが、いつもきっちりと行った。ヴァランタンは、犯罪者の追跡には情け容赦なかったが、その処罰にあたっては非常に慈悲深かった。というのも彼がフランス――ひいてはヨーロッパの広い範囲――における刑事事件の最高権威となっていたからで、その大きな影響力は刑の軽減と刑務所の浄化のためにきちんと使われてきた。ヴァランタンは偉大なる、人道主義的なフランス自由思想家の一員だった。もっとも、そうした人々がもつ唯一の欠点は、慈悲というものを正義よりもなお一層冷たい物にしてしまうところにあるのだが。
 帰宅したとき、ヴァランタンはすでに黒服と赤いバラ飾りを身にまとっていた――素晴らしい姿だった。とはいえ色の濃い顎髭にはすでに灰色のものが混じっていたが。彼は邸内をまっすぐに突き進み書斎に入った。書斎は裏庭に面しており、庭へ出る扉は開いていた。彼は持って帰った箱を所定の位置にしっかりと固定してから、開いた扉の前にしばらくたたずみ、外の庭を見つめていた。くっきりとした月が、暴風で襤褸きれのように群れ飛ぶ雲と戦っていた。それを見る彼の様子には、いつもの科学的な性質に似合わぬ物憂げなところがあった。おそらく彼ほど科学的な性質の人間であっても、生涯最大級の驚くべき問題が起こりそうな予感くらいは感じることもあるのだろう。だがすくなくとも彼は、なんであれそうした非科学めいた気分から、すぐさま立ち直った。晩餐に遅れているのも、招待客たちがすでにやって来始めているのもわかっていたからだ。客間に入っていって見渡したところ、すくなくとも一番来てもらいたいと思っていた客は、まだ着いていないようだった。だが他の客はみなそろっていた。イギリス大使のギャロウェイ卿がいた。怒りっぽい老人で、リンゴのような赤ら顔にガーター勲章を付けた青い大綬を身にまとっている。ギャロウェイ夫人もいた。ほっそりと糸のような身体で、頭は真っ白、神経過敏で傲慢そうな顔つきだ。娘のマーガレット・グラハムもいる。肌が抜けるように白い可愛らしい女性だ。妖精のような顔と栗色の髪をしている。黒い瞳とまん丸い身体のサン・モン・ミシェル公爵夫人もいた。いっしょにいるのは、公爵夫人の娘ふたり。やはり瞳は黒く、身体はまん丸だった。医学博士のシモン氏もいた。彼は典型的なフランス人科学者だ。メガネをかけ、茶色い尖った顎髭を生やし、額には皺が何本も並行してしっかりと刻み込まれている。その皺はお高く止まった態度の代償だった。というのもそれは、常に人を小馬鹿にしたように眉をもちあげているせいでできたものだったからだ。ブラウン神父もいた。エセックス州はコボウルの人で、ヴァランタンとはついこのあいだイギリスで顔を合わせたばかりだった。おそらくヴァランタンが、これらの人々と較べれば、まだ興味を持てたのは――軍服姿の背の高い男だった。その人物はギャロウェイ家の人々に挨拶をしていたが、さほど暖かい反応を返してもらえず、今度は主催者へ挨拶するべく、ひとりでこちらにやってきた。この人はフランス外人部隊のオブライエン司令官。体つきは華奢だがいくぶんいかり肩気味で、ひげは入念に剃られていた。髪は黒く眼は青い。数々の、勝利にも似た失敗と成功した玉砕作戦とで高名な部隊の将校なのだから当たり前かもしれないが、彼のまとった雰囲気には、威勢の良さと憂鬱とが同時に備わっていた。彼はもともとアイルランドの紳士の家の出で、少年期にはギャロウェイ家と親交があった。とりわけマーガレットとは。その後、借金に塗れて国を飛び出し、今ではイギリスの礼儀作法など関係ないと言わんばかりに、軍服に、サーベル、それから拍車まで身につけた出で立ちで歩きまわっている。彼が大使一家に挨拶をしたときには、大使と夫人はぎこちなく身をかがめ、マーガレットはそっぽをむいた。
 しかしそうした彼らが互いを意識する昔の因縁がどんなものであれ、ヴァランタンは取り立てて関心をおぼえなかった。すくなくともヴァランタンにしてみれば、彼らの誰ひとりとして、今夜の主賓ではなかったからだ。ヴァランタンが特別な理由から待ちわびているのは、ある世界的な有名人であり、彼が探偵仕事で何度かアメリカまで行き、その地で大勝利を収める中で友情を育んだ相手だった。彼が待ちわびているのは、ジュリアス・K・ブレイン、あの億万長者だ。彼はあちこちにある小さな宗教団体に、相手を押し潰しかねないほどまでに巨額な寄付を行い、英米の新聞に気楽な話題とさらに気楽な厳粛さを提供してきた。ブレイン氏が無神論者なのか、それともモルモン教徒かクリスチャンサイエンスの信者なのかは、誰にもはっきりとはわからなかった。とにかく彼は知的な人物であれば誰にでも、それが未知数のものである限りは、喜々として金を注いだ。彼の趣味のひとつはアメリカのシェイクスピアが出るのを待つことだった――魚釣りよりも辛抱がいる趣味だ。ブレイン氏はウォルト・ホイットマンを称えたが、ホイットマンよりもペンシルベニア州パリスのルーク・P・タンナーの方が「進歩的」だといつも考えていた。ブレイン氏が好きなのは、何であれ「進歩的」だと思えるものだった。ヴァランタンのことも「進歩的」だと思っていたが、それは大変な勘違いだった。
 ジュリアス・K・ブレインが客間に到着すると、まるで食事のベルが鳴ったときのように雰囲気が変わった。彼には他の人が滅多に持ち合わせていない、この素晴らしい資質があった。いるときにもいないときと同じだけの存在感があるという資質が。ブレインは縦にも横にも大きく、服は黒一色のイブニングで、時計の鎖や指輪程度の装身具すら身につけてはいなかった。髪は白く、ドイツ人のようにしっかりと後ろになでつけてあった。顔は赤く、どう猛そうで丸々としていた。下唇の下に生やした山羊ひげのせいで、それがなければ幼く見える顔立ちは、芝居がかった、メフィストフェレスのような印象を与えていた。すぐに、サロンの面々は、この著名なアメリカ人をただ眺めているだけでは気が済まなくなった。すでにブレイン氏の遅刻はみなの気にする問題になっていたのだ。だから彼は大急ぎで客間へと通された。ギャロウェイ夫人と腕を組んで。
 一点にだけ目を瞑れば、ギャロウェイ家の人々は十分に愛想も良く、気さくだった。マーガレットがあの冒険家オブライエンの腕を取らないでいる限り、ギャロウェイ卿は完全に満足していた。そしてマーガレットはそんなことをすることもなく、礼儀正しくシモン博士の相手をしていた。それなのに、老ギャロウェイ卿の方は落ち着かずに、ほとんど無礼なほどだった。夕食のあいだこそ、十分そつなく振る舞っていたが、やがて、葉巻を片手に、自分より年若い三人――シモン博士、ブラウン神父、それにあの邪魔者オブライエン、異国の制服に身を包んだ流浪人――が、ご婦人たちの会話に混じったり、温室で葉巻をくゆらすために散って行くと、このイギリス外交官はいよいよもってまったく外交官らしくなくなった。一分ごとに、こんな考えが彼を苛んだ。ならず者のオブライエンがマーガレットにどうにかして合図を送っているかもしれない。「どうやって?」などとは考えてみようともしなかった。ギャロウェイ卿は食堂に残ってコーヒーを飲んでいた。一緒にいるのは、あらゆる宗教を信奉する白髪のヤンキー、ブレイン氏とあらゆる宗教を信じない白髪交じりのフランス人ヴァランタン氏だった。議論の話題にはことかかなかったが、ギャロウェイ卿にはどの話題も面白くなかった。しばらくして言葉についての「進歩的な」議論が退屈な煮詰まりをみせたところで、ギャロウェイ卿も立ち上がって客間を覗きに行った。長い廊下をいくうち六分か八分ばかり道に迷った。ようやく聞こえてきたのは、シモン博士の説教めいた甲高い声だった。それから神父のもさっとした話し声がして、みんなの笑い声がそれに続いた。ギャロウェイ卿はむしゃくしゃしながら思った。ちぇ、ここも「科学と宗教」の話か。だがサロンの扉を開いた瞬間、彼に見えたのはたったひとつのことだけだった――彼はそこに誰がいないかということを見たのだ。オブライエンはいなかった。そしてマーガレットもまた、いなかった。
 食堂から出て来たときのように、かりかりした気分で客間を後にすると、ギャロウェイ卿は足踏みならして、もう一度廊下を渡った。あのアイルランドアルジェリア人のろくでなしから娘を守らなければという思いで頭がいっぱいになり、しまいには気も狂わんばかりにまでなった。驚いたことには、家の奥の方(ヴァランタンの書斎がある方)へ向かう途中で、娘が蒼白な顔に軽蔑の表情を浮かべて、小走りに駆けていくのに出くわした。そしてこれがふたつめの謎となった。もし娘がオブライエンと一緒にいたのなら、オブライエンはどこだ! もしオブライエンと一緒じゃなかったのなら、マーガレットはどこにいたんだ? ある種老人くさい好色な疑いを抱きつつ、屋敷の薄暗い奥まった方まで手探りで進み、やがて使用人が使う出入り口に辿り着いた。そこから庭へ出る扉は開いていた。三日月刀のような月は、すでに暴風の名残をすべて切り裂き、吹き飛ばしていた。白銀の光が庭の隅々までを照らし出している。背の高い青っぽい人影が芝生を渡って書斎の方へと大股で向かってきている。銀色の月灯りで軍服の縁取りが輝いていたので、その人物がオブライエン司令官だとわかった。
 オブライエンはフランス窓から室内へと消えていった。残されたギャロウェイ卿の方は憎しみに燃えつつも何か曖昧な名状しがたい気分だった。青と銀に彩られた庭が、まるで劇中の一場面みたいに、専制君主の横暴さが透けて見える優しさで、自分を嘲っているような気がした。彼の持つ現世の権威がその優しさと戦っていた。オブライエンの足の長さと上品な歩き方にも腹が立った。まるで父親ではなく恋敵のようだった。月が狂わせたのだ。ギャロウェイ卿は罠に掛かっていた。あたかも魔法で吟遊詩人たちの遊ぶ庭、ヴァトーの描いた桃源郷にでも誘い込まれたかのように。そのようななまめかしい愚かさを振り払うためにも一言言ってやろうと、急ぎ足で敵のあとを追った。そのさなかに、ギャロウェイ卿は芝生に転がる木だか石だかにつまずいた。最初は腹を立てて足下を見た。それから、なんだこれはという表情でもう一度眼を凝らした。次の瞬間、月と背の高いポプラの木々は異例の光景を目撃することになった――老練な英国外交官が全力で走りながら叫び声をとどろかせるという光景を。
 しゃがれた叫び声を聞いて書斎の扉までやってきたのは、青白い顔に、メガネを輝かせ、眉間に皺を寄せたシモン博士だった。そこまできてやっと、ギャロウェイ卿が何を言っているのかがはっきりした。ギャロウェイ卿はこう叫んでいた。「庭に死体が――血まみれの死体が」ようやく、オブライエンのことを完全に心から追い出せたというわけだ。
 ギャロウェイ卿がなんとか確認したことをしどろもどろに説明すると、「すぐヴァランタンに報せなければ。彼がいてくれて良かった」とシモン博士は言った。だがそう言う間にもう名探偵は書斎に着いていた。叫び声が気になったのだ。ここで彼特有の変貌振りを記しておいても、決して悪くはないだろう。彼がやってきたのは、客か使用人に何かあったのではないかという、ホストとして、また紳士としてごく当たり前の懸念からだった。しかしむごたらしい事実を聞かされるや、彼はすぐにもてるすべてのまじめさを動員して、飲み込み良くテキパキと仕事をこなす職業人へと変貌した。どれほど険悪で身の毛がよだつことであろうと、これが彼の務めだったからだ。
 三人は急いで庭へ出た。「奇妙なもんですね、みなさん」とヴァランタンは言った。「世界を股にかけて、事件を追いかけてきた私のところに、事件の方からやって来て、この裏庭に腰を降ろしてしまったというんですから。それで現場はどこです?」彼らは芝生を渡っていったが、いささかの苦労があった。セーヌ川の方からわずかばかり霧が出はじめていたのだ。しかし動揺したギャロウェイの案内のおかげで、茂みの中に倒れている死体は見つけられた。死体はとても背が高く肩幅も広い男だった。男はうつぶせに倒れていたので、三人にわかったのは、男が黒い服を身につけていること、頭が禿げていること、とはいえ頭部には茶色い髪が一房か二房残って、濡れた海藻みたいに頭に貼り付いていることくらいだった。うつぶせの顔の下からは、血が紫色の蛇のように流れ出していた。
「すくなくとも」とシモンが言った。深い奇妙な抑揚をつけて。「この人は今日来ていた人ではありませんね」
「調べてみてください、先生」ヴァランタンが叫んだ、咎めるように。「まだ生きているかもしれない」
 博士はかがみこんだ。「まだすこし温かい。ですが残念ながら、完全にこときれていますよ。さあ持ち上げるてみるから手を貸してください」
 彼らが男を慎重に地面から三センチほど持ち上げると、本当に死んでいるのかという疑問はすべて決着した。即座に、そして恐ろしいかたちで。頭がぽろりと取れたのだ。頭部は身体から完全に切断されていた。男の喉を切ったのが誰であれ、その人物はついでに首全部を切り落としていた。ヴァランタンさえ、わずかばかり身体を震わせた。「犯人はゴリラみたいに力が強かったに違いないですね」彼は小声で言った。解剖学的奇形には慣れていたものの、それでも多少震えながら、シモン博士はその頭を持ち上げた。顎や首の辺りには、いくつか切られた痕がついていたものの、顔の方は大体無傷だった。大きくて重く、黄色い顔だ。くぼんでいるのと同時に膨らんでもいる。鼻は鷹のようで、まぶたは半ば閉じている――邪悪なローマ皇帝の顔、おそらくはそれに中国皇帝のよそよそしい手触りを合わせたような顔だった。三人がそれを見る眼差しには、この上もなく冷たい無関心さが宿っているようだった。その男については他には何もわからなかった。死体を持ち上げたときに、血の赤さで駄目になったワイシャツの胸を見て、もともとは白いシャツであったことがわかったくらいだ。シモン博士が言ったように、男は決してパーティーには来ていなかった。けれど彼がそれに参加しようとしていたことは十分にありえた。パーティー向けの正装姿をしているのだから。
 ヴァランタンは四つんばいになると、プロらしい、この上もなく綿密な注意をもって、死体の回り二十メートル四方にある茂みと地面を調査した。シモン博士も及ばずながら手を貸した。ギャロウェイ卿も何を探せばいいのかもわからないまま、見よう見まねで協力した。出てきたのは小枝数本だけだった。小枝それぞれに短く折られたり切られたりしていた。ヴァランタンはそれを拾い上げるとちょっと調べただけで放り投げた。
「小枝か」ヴァランタンは重々しく言った。「小枝と、それから首を切られた、まったく身も知らぬ男。この庭にあるのはこれだけですね」
 薄気味悪い静寂があった。そしてそのあと、ギョッとしたギャロウェイ卿が鋭い叫び声を上げた。
「あれは誰だ! あっちの、庭の壁の近くに誰かいるぞ!」
 馬鹿げたほど頭の大きい小柄な人影が月明かりに煙る霞の中をゆらゆらとこちらに近付いてくる。一瞬ゴブリンかとさえ思われたが、それは彼らが客間に置き去りにしてきた、無害なちびの神父だった。
「えーとその、」神父は意気地のなさそうな声で言った。「この庭に入って来られる入り口はないんでしたよね」
 ヴァランタンの黒い眉がやや互いに狭まった。カソック(司祭の平服)をみると、決まってそうなるのだ。しかし彼は決して神父の言葉が事件と関連していることまで否定するような男ではなかった。「ええ仰るとおりです。あの人がどうやって殺されたかを知る前に、どうやってここに入ってきたのかを考えなきゃいけないかもしれませんね。ところでみなさんに言っておきます。私の立場とそれに伴う義務が許す限りは、この事件で高名な方々のお名前が表に出ないようにいたします。ご婦人方、紳士方そして外国の大使がいるのですから。犯罪だと断を下すとなれば、そのあとは犯罪として追求していかなければなりません。しかしそれまでなら、私は自分の自由裁量を使うことができます。警視庁長官というのは、あまりにも公人であるために、かえって密かに行動する余裕もあるのですよ。今日のお客様への疑いをすべて取り払ってから、部下を呼んで、調査に当たらせます。皆様には、名誉にかけて、明日の正午までは屋敷から出ていかないと約束していただきたい。寝室は全員分用意します。シモン先生、使用人のイヴァンがどこにいるかご存知ですね、正面玄関ホールです。あいつは信用できる男です。あいつに、警備は他の誰かにやらせて、すぐこっちへ来るようにと伝えてください。ギャロウェイ卿、ご婦人たちに何があったのかを教えるのと、パニックにならないよう取りはからうのは、あなたが一番適任でしょう。ご婦人がたも明日の昼まではここにいてもらいます。死体には、ブラウン神父と私がついています」
 ヴァランタンがリーダーシップを発揮すると、みなは進軍ラッパの合図でも聞いたかのように従った。シモン博士は武器の飾られたホールまで行って、公の探偵が抱える私的探偵イヴァンを連れてきた。ギャロウェイ卿は客間へ行き、恐ろしいニュースを十分適切な語り口で伝えた。おかげでみながそこに集まるまでには、ご婦人方はすでに驚いており、さらにはすでに落ち着きを取り戻してもいた。一方、良き神父と良き無神論者は死体の頭の方と足の方に立って、月明かりの中、じっと動かなかった。あたかも彼らがそれぞれに持つ、死に対する哲学の象徴的な銅像にでもなったかのように。
 顔に火傷痕とヒゲのある腹心の部下イヴァンは屋敷から大砲の弾のように飛び出し、庭を駆け抜けヴァランタンのもとへとやってきた。まるで犬が飼い主のもとへと来るように。その青ざめた顔は、非常に生き生きとしていた。敷地内の探偵物語に興奮しているのだ。そして不愉快と言っても良いほどの熱心さで、彼はヴァランタンに死体を改めさせてくれと頼んだのだった。
「見たければ見るがいいさ、イヴァン」とヴァランタンは言った。「だが手早くやってくれ。中に入って、徹底的にこの件を話し合わなくちゃならないからな」
 イヴァンは首を取りあげて、それから危うく落としそうになった。
「な、これは――いやちがう。そんなはずはない。旦那様、この男をご存知ですか?」
「いいや」ヴァランタンは興味なさそうに言った。「中に入るぞ」
 三人で死体を取り囲むように持ちあげて、書斎のソファまで運び入れた。そのあとでそろって客間へと向かった。
 探偵は客間の机の一つに静かに、躊躇うことさえなく腰を降ろした。だがその眼は審理に挑む判事特有の鉄の眼だった。素早く目の前に置かれた紙にいくつかのことを書きつけてから、短く言った。「みなさんここにいらっしゃいますか?」
「ブレインさんがいません」と言って、サン・モン・ミシェル公爵夫人は回りを見回した。「いない」とギャロウェイ卿がかすれたしゃがれ声を出した。「それからニール・オブライエン氏もいないようだな。まだ死体が温かい頃に、私は庭であの人が歩いているのを見たんだが」
「イヴァン」と探偵は言った。「オブライエン司令官とブレインさんをお連れしろ。ブレインさんの居場所はわかっている。食堂で葉巻を吸い終える頃だ。オブライエン司令官は温室の散歩でもしているのではないかな、確信はないが」
 忠実なる使用人は部屋から飛ぶようにして出ていった。そして誰一人動いたり話したりし始めるより早く、ヴァランタンはそれまで同様、軍人風にてきぱきと解説を続けた。「ここにいらっしゃるみなさんはご存知のように、庭で死体が発見されました。首が身体からきれいに切り取られています。シモン博士、あなたが検分したんでしたね。あんな風に人の首を切るには、かなりの力が必要になりますか? それともとても鋭い刃物があれば十分ですか?」
「おそらく、ナイフなんかではとても無理です」青ざめた博士が言った。
「何か思いつきませんか」とヴァランタンは聞き直した。「あんな真似ができる道具というとどんなものがありますかね?」
「現代の道具に限定するなら、まったく思いつきませんね」と博士は答えた。眉を持ち上げて沈痛な面持ちを作りながら。「首を叩き切るのは、切り具合を気にせずにやったとしても簡単ではありません。ですが問題の首はきれいに切り取られています。こんなことができるのは、戦斧や、昔の死刑執行人が使った斧、両手持ちの長刀などでしょうね」
「あら、でも」とヒステリックと言ってもいい声を上げたのは公爵夫人だ。「両手持ちの長刀だの、戦斧だのは、この辺にはないんじゃございませんこと?」
 相変わらず目の前の紙にあれこれと書きつけていたヴァランタンが「では」と、忙しく手を動かしながら言った。「フランス騎兵隊のサーベルでしたらどうでしょう?」
 扉がノックされる低い音がした。その音は何か理由にならない理由で、皆の血を固まらせた。「マクベス」の有名なノックのように。凍てついた沈黙の中、シモン博士は声を絞り出した。「サーベルですか――そうですね、できる、と思います」
「参考になりました」と、ヴァランタンは言った。「入って構わないぞ、イヴァン」
 腹心のイヴァンが扉を開け、ニール・オブライエンの到来を告げた。結局、また温室をぶらぶらしていたのだそうだ。
 オブライエンは混乱して反抗的な態度で、入り口の所に立っていた。「何の用です?」と、彼は叫んだ。
「お掛けください」ヴァランタンの声は愛想良く、落ち着いていた。「ええと、剣をお持ちになっていませんが、どこにありますか?」
「図書室のテーブルに置いてあっけど」とオブライエンは答えた。苛立っているために、アイルランドなまりが強まっていた。「馬鹿馬鹿しい。俺の剣が――」
「イヴァン。図書室まで行って、司令官の剣をお持ちしろ」と指示されたイヴァンがいなくなってから、ヴァランタンは続けた。「ギャロウェイ卿は、死体を発見する直前にあなたが庭から立ち去っているのを見ているそうです。庭で何をしていたんですか?」
 オブライエンは椅子にどさりと腰を降ろした。「ああ」彼はアイルランドなまり丸出しで叫んだ。「月を眺めてたんよ、自然と親しんでたんよ、あんた」
 重苦しい沈黙が降りてきて、しばらく居座った。やがてそれを破ったのはまたも、ありきたりでありながら恐ろしくも感じられるノックの音だった。再び現れたイヴァンの手には鉄の鞘だけがあった。「これしかありませんでした」とイヴァンは言った。
「テーブルの上に置いてくれ」ヴァランタンは顔を上げることなく言った。
 部屋の中には、冷酷な沈黙があった。あたかも有罪宣告を受けた殺人犯の被告席の回りを取り囲む沈黙の海のようだった。公爵夫人の発した力ない叫び声はとっくに消え去っていた。ギャロウェイ卿は膨らんだ敵意が満たされて、気が済んでさえいた。次に飛び出した声はまったく予想していないものだった。
「私、お話しできます」叫んだのはマーガレットだった。声には、勇敢な女性が公衆の面前で話すとき特有の、明瞭さと震えとがあった。「私、お話します。オブライエンさんが庭で何をしていたのか。だって、彼には話せませんもの。オブライエンさんは私にプロポーズをなさっていました。私、お断りしました。家族の意向がこうでは、尊敬することしかできませんと言って。オブライエンさんの方は不機嫌になられました。尊敬なんてされても仕方ないとお考えのようでした」それからマーガレットは付け加えた。かなり弱々しい笑みを浮かべて。「でもこれで、すこしは尊敬されるのも悪くないと思っていただけるのではないかしら。だっていまこう言うのは、尊敬しているからなんですもの。私、どこででも証言いたします。オブライエンさんは決してこのようなことはなさっていません」
 マーガレットが話しているうちから、娘の方へと近付いていったギャロウェイ卿は、自分には小声だと思われる声で彼女をしかりつけた。「黙っていなさい、マギー」ギャロウェイ卿は小声でカミナリを落とした。「なんだってあいつを庇う? じゃあ剣はどこにあるんだ? 奴のいまいましい騎兵――」
 彼はそこまでで口をつぐんだ。娘が凄い目でこっちを睨んでいたのだ。その目は恐ろしい力で、父親だけでなくその場の全員を引きつけた。
「お父様は馬鹿なの?」マーガレットは、なんら飾らない低い声で言った。「ご自分が何を言おうとしているか、わかっているのですか? 私は、この人は潔白だ、そして私と一緒でしたと言っているのですよ。もし彼が潔白でないとしても、それでもやっぱり彼は私といたのです。もしオブライエンさんが庭で人を殺めたなら、それを見ていたに違いないのは、――すくなくともそれを知っていなくちゃならないのは誰なの? お父様はニールがあんまり憎いものだから自分の娘まで――」
 ギャロウェイ夫人が悲鳴をあげた。他の人々は座って、これまでにこの恋人たちのあいだに数々あったであろう恐ろしい悲劇の気配にぞくぞくしていた。彼らには、誇り高い蒼白な顔をしたスコットランドの貴族と、娘の恋人であるアイルランド人の山師が、陰鬱な部屋に飾られた古い肖像画みたいに見えた。長い沈黙を満たしていたのは、歴史上、連綿と続く殺された夫と毒を盛った愛人の形をなさない記憶だった。
 この陰気な沈黙の真ん中から、無邪気な声が響いた。「その葉巻というのは、ずいぶん長いのですかねえ?」
 話題の転換があまりにも急だったので、みな誰が声を出したのかと見回さなければならないくらいだった。
「私が言っているのは、」と言ったのは、部屋の隅にいたブラウン神父だった。「私が言っているのはブレイン氏が吸い終えようとしていた葉巻のことなんですわ。どうやらステッキくらいの長さがあるようですねえ」
 この場とはなんの関係もないにもかかわらず、顔を上げたヴァランタンには苛立ちのみならず、同意の表情があった。
「仰るとおりだ」ヴァランタンはつっけんどんに言った。「イヴァン、もう一度ブレインさんの様子を見てきてくれ。そしてすぐこちらにお連れしろ」
 その時にはもう使用人はドアを閉めていた。ヴァランタンはまったく新しい真面目さでマーガレットに話しかけた。
「マーガレット嬢」と彼は言った。「私は、そしてここにいるみなさんも間違いなく、感謝と称賛の念と禁じ得ません。あなたは自らの品位に傷がつくことも恐れず、オブライエンさんの行動を説明してくれたのですから。ですがまだ空白の時間が残っています。ギャロウェイ卿は、貴方が書斎から客間へ向かうのを見ている。卿が庭へ出たのは、それから数分経ったあとです。そしてそのときオブライエンさんはまだそこを歩いていた」
「覚えていると思いますが、」とマーガレットは答えた。その声にはかすかに皮肉の響きがあった。「私はプロポーズをお断りしたばかりでした。ですから私たちが手に手を取って中に入るなんて、まずあり得ませんよね。とにかく、彼は紳士でした。だからその場に残っていてくれていたのです――そしてそのせいで殺人の疑いを受けたのです」
「そのわずかばかりのあいだに」ヴァランタンは重々しい声で言った。「もしかしたらオブライエンさんは本当に――」
 またノックの音がして、ドアからイヴァンが怯えた顔だけを出した。
「すみません、旦那様」と彼は言った。「ブレイン様はお帰りになられております」
「帰っただと!」ヴァランタンは叫ぶと、客間に入ってから初めて立ち上がった。
「いなくなりました。出て行かれました。消えてしまいました」と、イヴァンはフランス語でおどけて言った。「帽子もコートもありません。さらにお伝えすることがございます。ブレインさまがどこへ向かわれたのか、手がかりを探しに走って外へ出たら、見つけたんです。大きな手がかりを」
「なんの話だ?」とヴァランタン。
「お見せいたします」と使用人は言い、中に入ってきた。手に持っていたのは、光り輝く剥き出しのサーベルで、先端のあたりと刃には血の筋がついていた。部屋にいる誰もがそれを稲妻でも見るかのようにして見つめた。だが経験豊富なイヴァンはまったく落ち着き払って話を続けた。
「これはパリの方へ五十メートルほど行ったところの茂みの中に落ちていました。つまり尊敬すべきブレインさまが逃げる途中で投げ捨てた場所にあったのです」
 またも沈黙が訪れた。だがそれは新たな種類の沈黙だ。ヴァランタンはサーベルを受け取ると、それを検分し、外界を完全遮断するほどの集中力で考えこんだ。それから尊敬の念をあらわにした顔をオブライエンに向けた。「司令官」とヴァランタンは言った。「我々はあなたを信頼します。捜査上の必要がある場合には、この武器をいつでも提出いただけますね。当面のあいだ、」と、彼は付け加えて。剣を鞘に収めた。「剣の方はお返ししておきます」
 その行為の軍人的なシンボリズムに、見るものたちはあやうく拍手してしまうところだった。
 ことニール・オブライエンにとっては、その動作は存在の転換点となった。朝の光の中で再びあの神秘的な庭を散歩することになるまでには、彼に常日頃から見られるあの悲劇的な不毛さはすっかりなりを潜めていた。彼には幸福を感じるさまざまな理由があった。ギャロウェイ卿は紳士だったので、すでに彼に対して謝罪をしていた。マーガレット嬢はただの令嬢以上の、すくなくともただの女性以上の人だったので、おそらくは謝罪以上のものを彼に与えていたはずだ。だからふたりは、朝食の前に一緒に古い花壇を見て回っていたのだろう。お仲間の誰もがより明るくよりやさしくなっていた。殺人の謎は残っていたけれども、疑いという重荷は彼らみなから外れて、奇妙な億万長者、彼らがほとんど面識のない男とともに、パリへと飛び去ったのだから。悪魔は追い払われた――いや、自分から出ていったのだ。
 それでも、謎は残っていた。そしてオブライエンが庭のベンチに、シモン博士と腰を降ろしたときに、非常に科学的な博士はすぐ謎の解明を再開した。がオブライエンはほとんど話に乗ってこなかった。彼の頭はもっと楽しいことに向かっていたからだ。
「あんまり興味がもてませんね」とアイルランド人は正直に言った。「もう話はかなりあきらかですし、今更じゃありませんか? あきらかにブレインは被害者を憎んでいた。なんらかの理由でね。だから被害者を庭へとおびき寄せ、私の剣で殺したんです。それからパリへと逃げた。剣は途中で放り捨てて。ところでイヴァンが教えてくれたんですが、死んだ男はポケットにアメリカドルを入れていたそうです。だから被害者はブレインと同じ国の人なんですよ。話はついたんじゃないですか? この件には何も難しいところはないと思いますが」
「大きな問題が五つあります」と博士は静かに言った。「壁に囲まれた高い壁のような問題がね。誤解しないでいただきたいが、犯人がブレインなのは間違いないと思いますよ。いなくなったのがその証拠です。私が疑問に思っているのは、どうやってやったのかということについてです。まず第一に、なぜある人間が別の人間を殺すのに、かさばって仕方のないサーベルなんて使ったりしたのかということ。殺すのには、ポケットナイフを使って、それを自分のポケットにしまっておくこともたぶんできたはずです。第二には、なぜ争う音や悲鳴が上がらなかったのかということ。普通なら、誰かがサーベルを振り回して近付いてきたら、悲鳴くらい上げるものでしょう。第三には、使用人が晩のあいだずっと正面玄関で監視に当たっていたということ。ここの庭には他のどこからも、ネズミ一匹入り込むことはできない。では死んだ男はどうやって庭に侵入したのでしょう? 第四には、このような状況にあって、どうやってブレインは庭から出ていったのかということ」
「五番目の問題はなんです」と、ニールは言った。けれども彼の目が見据えているのは、博士ではなく、小道をゆっくりとやってくるイギリス人神父の姿だった。
「五番目はたぶんささいなことです」と、博士は言った。「ですがちょっと奇妙な問題です。最初に首の切り口を見たときには、犯人が何度か斬りつけたのだろうと思いました。ところが調べてみてわかったのですが、切り取られた部分のいたるところにたくさんの傷があったのです。つまり犯人は首を切り落としたあとで何度も斬りつけているのです。ブレインはそこまで激しく被害者を憎んでいたんでしょうか。月明かりの下で、死体を何度も何度も斬りつけるほどに?」
「ぞっとする話だなあ!」と、オブライエンは言って、身を震わせた。
 小柄なブラウン神父はふたりが話しているあいだに到着していたが、持ち前の照れ性から話が終わるのを黙って待っていた。それからぎこちなく言った。
「その、お話のお邪魔をしてすみませんが、ニュースがあったので伝えるように言われましてな」
「ニュースですって?」シモン博士が繰り返して、眼鏡越しにブラウン神父をじっと見た。かなり嫌そうに。
「ええ、残念ながら」と、ブラウン神父は穏やかに言った。「また殺人があったんですわ。なんともはや」
 ベンチに座っていたふたりは跳び上がり、ベンチがぐらぐら揺れた。
「そして、さらに奇妙なことがありましてな、」と、神父は続けた。ぼんやりとした眼差しでシャクナゲを眺めながら。「また例の胸のむかつくような事件なんですわ。首が切られていたそうで。見つかったふたつめの首は実際に血を流して、それが川まで続いていたとか。ブレインが通ったと思われるパリへと続く道を、しばらく行ったところで見つかったので、みなさんはこれも――」
「なんてことだ!」オブライエンが叫んだ。「ブレインは偏執狂なのか?」
アメリカ型の復讐というのがあるのですよ」ブラウン神父は動じることなく言った。それからこう付け加えた。「それであなたがたに図書室まで来ていただいて、首を見てもらいたいということなんですわ」
オブライエン司令官はあとのふたりにあとについて、検死審問へ向かったが、まったくもってやりきれない気分だった。兵士として、この隠された虐殺事件はどうにも気に入らなかった。この現実離れした切断事件はどこで終わってくれるのだろう? 最初にひとつ首が切り取られた。それからもうひとつ。この場合には(とオブライエンは苦々しく考えた)頭ふたつの方がひとつより良い(訳注 英語のことわざ。三人寄れば文殊の知恵)とは言えまい。書斎を渡っていくときに、衝撃的な偶然の一致を見て、あやうくよろめきそうになった。ヴァランタンのテーブルの上に置かれていたのは、色の付いた絵だった。そこには第三の血まみれの首が描かれていた。そしてそれはヴァランタン自身の首だった。もう一度見直してみると、テーブルに載っていたのは、なんのことはない、「ギロチン」という名の愛国新聞だ。その新聞は、毎週政治的立場が違う相手をひとり選んでは、その人物が首を切られ、目を剥きだし苦悶に顔を歪めている場面のイラストを掲載していた。ヴァランタンが槍玉に挙げられたのは宗教嫌いがある程度知られていたせいだ。だがオブライエンはアイルランド人で、ある種の節度が備わっていた。ヴァランタンの宗教的な罪に対してさえも。そのため、フランス特有の知性から出てきたひどい野蛮さには吐き気を覚えた。パリは総体なのだと彼は感じた。ゴシック建築の奇怪な像の数々から新聞紙上に載った奇怪なカリカチュアに至るまでの。思い出したのはフランス革命という大規模な冗談のことだ。彼にはパリのすべてが醜いエネルギーの塊に見えた。ヴァランタンの机の上に乗った血まみれのスケッチに始まり、ガーゴイルの住む山や森の上方の、大悪魔がノートルダム寺院の上でにやりと笑う場所にいたるまでのすべてが。
 図書室は細長い作りで天井が低く、暗かった。光は低い日よけの下から入ってくるだけで、その光にもいくぶん朝の赤い色合いが混じっていた。ヴァランタンと使用人のイヴァンが、わずかに傾斜した長机の上座で彼らを待っていた。机の上には殺された人の首が載せられていた。薄明かりの中で見ると非常に大きく見えた。そのまわりにはたくさんの水滴が落ちていた。ヴァランタンの使用人たちは漂っているはずの、ふたつ目の遺体の残りを見つけようとまだ奮闘していた。ブラウン神父は、オブライエンのような動揺はまったく見せずに、ふたつ目の頭のところへ行くと、極度に注意深く、それを調べた。濡れた白髪の塊とほとんど変わらない。赤くむらのない朝の光の中、銀色の炎で縁取りされていた。顔はといえば、醜かったように思われ、紫色に変色し、おそらくは犯罪者顔だったが、川に放りこまれたときに木にぶつかったか、石に当たったかして、かなりひどいことになっていた。
「おはようございます、オブライエン司令官」とヴァランタンは言った。真心のしっかりこもった口調で。「ブレイン最新の解体実験のことはもうお聞き及びですね」
 ブラウン神父はまだ白髪の首の上へ身をかがめていたが、やがてそれを見たまま言った。
「ブレインがこの首も切ったという話はまったく確かなことなんですよねえ」
「ええ、常識で考えればそうなるはずです」とヴァランタンは言った。手をポケットに入れたまま。「もう一つの死体と同じやり方で殺されています。見つかった場所も数メートルしか離れていません。そして同じ凶器で切られています。ブレインがそれを持っていったのはわかっています」
「ええ、ええ、私も知っとりますですよ」ブラウン神父は従順に返事をした。「ですが、その、ブレインがこの首を切り落とせたとは思いにくいのでして」
「どうしてです?」シモン博士が訊ねた。理性的な目でじっと見つめながら。
「ええと、博士」と神父は顔を上げ、目をぱちぱちさせながら言った。「人間は自分の首を切り取ったりできるもんですかねえ。私にはわかりませんが」
 オブライエンは狂った世界が耳の辺りで砕け散るような気がした。博士の方は確かめるに如くはなしと駆けだして、濡れた白髪の首を後ろに倒した。
「ああ、間違いありません。これはブレインですよ」神父は静かに言った。「この左耳の欠けているところをご覧なさい。あの人にも同じものがあったんですわ」
 それまで神父をキラキラした目で凝視していた探偵は、一文字に結んでいた口を開いて鋭く言った。「ブレインについてずいぶんお詳しいようですね、ブラウン神父」
「ええ」と、神父はそっけなく答えた。「数週間ほどご一緒させていただいておったんですわ。あの人は私どもの教会への入会を考えておりましてな」
 熱狂の星がヴァランタンの目に輝いた。ヴァランタンは神父の所まで大股で歩み寄った。拳を握りしめて。「それじゃあきっと」ヴァランタンは軽蔑丸出しで叫んだ。「きっと奴はあんたのところの教会に全財産をくれてやることも考えていたんだろうな」
「そうかもしれませんな」ブラウン神父は無感動に言った。「あり得ることです」
「それなら」ヴァランタンは叫んだ。恐ろしい笑みを浮かべて。「あんたはさぞ多くのことを知ってるんだろうよ。奴の人生について、それから奴の――」
 オブライエン司令官がヴァランタンの腕を軽く押さえた。「そんな中傷めいた非難は止めておきなさい、ヴァランタンさん」と、オブライエンは言った。「まだ別の剣が出てくるかもしれない」
 だがヴァランタンは(神父がつつましい眼差しでしっかりと見つめ返してきたので)すでに自分を取り戻していた。「そうですね」と彼は短く言った。「みなさんの個人的なご意見を表明してもらうには及びません。あなた方は以前として当所に止まる約束に拘束されています。これはお守りいただかなければなりませんし、互いに違反しないように監視しあっていただきます。何か知りたいことがありましたら、ここにいるイヴァンがお答えすることになります。私の方は仕事に掛からなくてはいけませんし、当局に対しても、書類を作らなくてはいけません。こうなってはもはや内密にはしておけませんからね。もし何か報せたいことができたときには、書斎までお越し下さい。そこで書き物をしています」
「さらに何かわかったことはあるかね、イヴァン」訊ねたのはシモン博士だった。すでに警視庁長官は部屋から出て行っている。
「もうひとつだけだったと思います」とイヴァンは言って、灰色の老顔に皺をよせた。「ですが、それはそれなりに重要な話です。あなたがたが芝生のところで見つけたあいつですが」と、イヴァンは敬意を見せるふりもせずに、黄色い頭と一緒に横たわる黒服を着た大きな死体を指さした。「誰だかわかりました。とりあえず」
「なんと!」博士は驚いて叫んだ。「で、誰なんだい?」
「あいつの名前はアーノルド・ベッカーと言います」イヴァンは言った。「他にも色々な別名を使ってはいますがね。奴は風来坊タイプの悪党で、アメリカにいたことがあるのもわかってます。そしてそこで、ブレインは奴に恨みをもったのです。我々自身は奴とはあまり関わりがありません。奴が仕事をしていたのは大抵ドイツでしたからね。もちろん我々はドイツ警察と連絡を取りました。それで、大変奇妙なことには、奴には双子の兄弟がいたんです。名前はルイス・ベッカー。ルイスの方とは、我々は大いに関係があります。それどころか私どもはつい昨日、彼が処刑されるのを見てきたばかりなのです。ええ、妙な話ですよね、みなさん、ですがあの男が芝生に伸びているのを見たとき、私はこんなに驚いたことはないってくらい驚きました。自分の目でルイス・ベッカーがギロチンにかけられるのを見ていなきゃ、草の上で伸びているのがルイス・ベッカーだと断言したところですよ。そのあと、もちろん、私はルイスの双子がドイツにいるのを思い出し、証拠を追っていったら――」
 説明をしていたイヴァンの口が止まった。誰も聞いていないという素晴らしい理由のために。司令官と博士のふたりが目を奪われたのは、ブラウン神父は急にがばりと立ち上がって、激しい痛みにでも襲われたかのように、こめかみをきつく押さえていたからだった。
「お静かに、お静かに願います」ブラウン神父は叫んだ。「ちょっとのあいだでいいので話すのを止めていてください。半ば見えているのです。神よ、力を与え給え。今一歩、あと一歩で、すべてが見えるのでしょうか? 天よ、助け給え! むかしはものを考えるのはかなり得意だったのです。昔はアクウィナスのどのページでも説明できたのです。頭が割れるか――それともすべてが見えるのか? 半ばまでは見える――だが半ばまでしか見えておりません」
 ブラウン神父は両手で顔を覆い、思考だか祈りだかがもたらす、ある種の激しい苦痛に耐えていた。一方他の三人はこの狂気じみた十二時間の最後に起こっている驚くべき出来事をじっと見るばかりだった。
 ブラウン神父の手が下がったとき、出てきたのはまったく新鮮で真剣な顔だった。まるで子どものように。神父はため息をつくと言った。「この問題はできるだけ早く片付けてしまいましょう。いいですか、一番早く真実へ辿り着くやりかたはこうです」と、神父は博士の方を向いた。「シモン博士、あなたには強靱な頭脳をお持ちですな、今朝この事件について、非常に難しい問題を五つ提出するのをお聞きしましたよ。その、もしですな、もう一度言ってくだされば、その質問には私がお答えしましょう」
 疑いと驚きのあまり、メガネが鼻からずり落ちたものの、シモン博士は即座に答えた。「そうですな、繰り返しになりますが、まず第一点は短剣でも十分なのに、なぜわざわざサーベルなど使う必要があったのかということです」
「短剣じゃあ首は切り落とせませんからねえ」ブラウン神父は穏やかに言った。「そしてこの事件では、どうしても首を切り落とす必要があったんですわ」
「なぜです?」興味深そうに訊ねたのはオブライエンだった。
「では次の疑問点は?」ブラウン神父は訊ねた。
「ええと、なぜ被害者は悲鳴をあげるなりなんなりをしなかったのか?」とシモン博士は言った。「庭の中にサーベルが出てくるなんて、どう見ても異常事態なのに」
「小枝のせいですわ」と神父は陰気に言った。それから窓の方を向いた。窓は事件現場に面していた。「誰も小枝の重要性に目をとめていません。ですが、なんでそんなものが芝生の上にあるのですかな(ごらんなさい)木なんてどこにもないじゃありませんか? 枝は手折られたものではありません。切り落とされたのです。犯人は被害者にサーベルを使ったなんらかの芸で気を引いた。空中で枝を切ってみせたりしたのかもしれませんが、違う方法だったのかもしれません。それから、被害者がその腕前を見ようと芝生に身を屈めたところに、音もない一撃が下され、首は落ちたのです」
「そうですな」博士はゆっくりと言った。「つじつまは十分にあっているような気がしますな。ですが次の二つの質問は誰でも頭を抱えるでしょう」
 神父は身じろぎもせずに立ったまま、じっと窓の外を見て、話の続きを待った。
「ご存知でしょうが、この庭はどこもかしこも気密室並に密閉されています」と博士は続けた。「では、どこの馬の骨ともわからない男はどうやって入り込んだのでしょうかね?」
 振り返ることもなしに、小柄な神父は答えた。「そもそも庭にはどこの馬の骨ともわからない男などいなかったのですよ」
 沈黙が降りた。それから急に、緊張から解放された子どもの笑い声かと思うような甲高い声が発せられた。神父の言ったことがあまりに馬鹿らしかったので、イヴァンはあざけりの言葉を投げつけ始めた。
「ああ、」と、イヴァンは叫んだ。「ということは、我々は昨夜無茶苦茶太った死体をソファーまで苦労して運ばなかったわけだ。奴は庭に入り込んでなかったわけだから。そういうことなんですよね?」
「庭に入り込んだ?」ブラウン神父は考え込みつつ繰り返した。「いえそれが、完全に入り込んでいたわけではないんですわ」
「ふざけるのは止めたまえ」シモン博士が叫んだ。「人は庭に入り込むか、さもなきゃ入り込まないかだ」
「絶対にそうだとは限らないのですよ」と、神父は言った。かすかな笑みを浮かべて。「次の質問はなんです、博士?」
「あんた、たぶん病気だな」シモン博士は尖った声で叫んだ。「まあいい、聞きたいなら次の質問をしてやる。どうやってブレインは庭から抜け出したのかね?」
「あの方は庭から抜け出さなかったんですわ」と、神父は言った。相変わらず窓の外を見つめながら。
「抜け出さなかっただって?」シモン博士は激怒した。
「すっかり抜け出したというわけではありませんな」
 シモン博士は両拳を振り回した。身についたフランス式論理の逆鱗を激しく刺激されたのだ。「人間は庭から抜け出すか、さもなきゃ抜け出さないかだ」そう叫んだ。
「必ずしもそうとは限りませんのでしてな」と、ブラウン神父は言った。
 シモン博士は我慢ならないといった様子で跳ねるように立ち上がり、「こんな出鱈目なお喋りにつきあっている暇はない」と、怒りも顕わに叫んだ。「人は壁のこちら側にいるか、さもなきゃあちら側にいるかだということを理解できないのでしたら、私はこれ以上あなたを悩ますことは致しますまい」
「博士、」神父はとても穏やかに言った。「私どもはお互いひじょうに楽しく過ごしました。その友情に免じて、どうか怒るのはそこまでにして、五つ目の質問をお願いできませんですかな」
 苛立ちを顕わにしたシモン博士は扉の傍らにある椅子に身を沈めると、手短に言った。「死体の首と肩には妙な具合の切り傷がつけられていた。死後つけられたみたいだった」
「さよう」神父は身じろぎせずに言った。「博士に単純な勘違いをさせようとして、死後につけられた傷ですな。そして博士はそのとおり誤解したんですわ。なぜそんな傷がつけられたのか。それは博士にこう思って欲しかったからなんですわ。その首はその身体についていたものなんだと」
 ゲール人のオブライエンの中で、あらゆる怪物が生み出される場所、頭脳のボーダーランドが凄い勢いで揺れた。半馬人や人魚といった、人間の妄想が生み出すあらゆる支離滅裂なものの存在を彼は感じた。さかのぼれるだけさかのぼった先祖よりも、なお古い声が彼の耳に囁いているような気がした。「その恐ろしい庭に近付くことなかれ、そこは二種の実をつける木が育つゆえに。ふたつの首をもつ者が死せる、邪悪な庭を避けるべし」と。だが、こうした恥ずべき、象徴的なものどもがアイルランド精神によって作られた太古の鏡を通り過ぎるあいだも、オブライエンのフランス化した知性はまったく油断なく、他の人々と同じように、綿密にそして疑い深く、その奇妙な神父を監視していた。
 ブラウン神父はとうとう振り返って、窓に背中を預けた姿勢を取った。顔には深い影が下りていた。しかしその影越しであっても、神父の顔が灰のように白いのは見て取れた。それでも、神父の口調には分別があった。ゲール人の精神など、どこ吹く風と言わんばかりに。
「みさなん」と、神父は言った。「あなたがたはベッカーという見知らぬ男の死体を庭で見つけたのではありません。庭に見知らぬ男の死体などなかったんですわ。シモン博士の合理主義にたてつくことにはなりますが、それでも断言いたします。ベッカーは部分的に現れただけだったんですわ。ごらんなさい!」と、神父は黒い塊のような謎の死体を指さした。「あの男にまったく見覚えがありませんな。では、この男なら見たことがありませんかな?」
 神父は、誰だかわからない禿げた黄色い首をそそくさと転がしてどけ、それがあった場所に、ふさふさした白髪頭の首を並べて置いてみせた。横たわる姿を現したのは、完全な、統一された、見間違えようのない、ジュリアス・K・ブレイン。
「犯人は」と、ブラウン神父は静かに続けた。「被害者の首を切り落としてから、剣を壁の向こうへと放り投げました。ですが犯人は剣だけを放り投げて終わりにするほど馬鹿じゃなかったんですわ。彼は首も壁の向こうへ放り投げたのです。あとは別の首を死体にくっつけておきさえすれば、(彼が非公式の検死審問で言ったように)、まったく新しい人間だと誰もが想像してくれるというわけなんですわ」
「別の首を死体にくっつけるですって!」オブライエンが驚いて言った。「別の首って何です? 首なんて庭の茂みじゃ取れませんよね?」
「ええ」とブラウン神父はかすれた声で言った。それから自分のブーツを見た。「首が取れる場所はひとつしかありません。首はギロチンのカゴの中から取れます。その脇に、事件が起こる一時間足らず前に、警視庁長官である、アリスティード・ヴァランタンは立っておりましたな。ああ皆さん、わたしのことを引きちぎってバラバラにする前に、もうすこしだけ耳をお貸し下さい。ヴァランタンは誠実な人間です。異論のある大儀について夢中になることを、もし誠実と呼ぶのなら。ですがあなたがたは、あの冷たい灰色の目を見ても、まったくわかっていなかったのですか? あの人が狂っていると! 彼はどんなことをしても、どんなことをしても、自らが十字架の迷信と呼ぶものを打ち倒すつもりだったんですわ。彼はそのために戦い、そうなることを渇望していました。そしてとうとうそのために殺人を犯してしまったのです。ブレインさんの常軌を逸した大金は、これまではあちらやらこちらやらにばらまかれていたので、状況のバランスを変えることはほとんどありませんでした。ですがヴァランタンはこういう噂を聞いたんですわ。ブレインさんが、あまりにもよくいる頭のおかしくなった懐疑論者たちのように、我々の団体に接近しつつあると。そうなると、話が変わりますわな。ブレインさんは資金を貧しく好戦的なフランス教会に注ぎ込むことでしょう。彼はギロチン紙のような愛国新聞六紙を支えることになるでしょう。それでなくても戦いは微妙なバランスの上で行われていました。そして狂気は危機にあたって燃えあがったんですわ。ヴァランタンはブレインさんを亡き者にしようと決意しました。そして実行したのです。最高の探偵が、一度だけ罪に手を染めるなら、こうするだろうというやり方で。彼はなんらかの犯罪学的な口実を使って、切断されたベッカーの首を公務に使う箱に入れて屋敷まで持ち帰ってきたんですわ。ヴァランタンはブレインさんと最後の話し合いをしました。ギャロウェイ卿が最後までは聞いていなかったあの話です。話し合いは決裂しました。ヴァランタンはブレインさんを封鎖された庭まで連れ出し、剣術の話をし、枝とサーベルを使って実演してみせ、それから――」
 火傷痕のあるイヴァンが弾かれるように立つと、「この気違いが!」と、怒鳴りつけた。いますぐ旦那様のところへ引き立ててやる。俺がおまえの――」
「もちろん、いきますとも」ブラウン神父は重々しく言った。「ヴァランタンに告白やら何やらをするように言わなければいけませんでな」
 みなは可哀想なブラウン神父を、人質か生贄のように前に押し立てて、ひとかたまりでヴァランタンの書斎に飛びこんだが、不意の静けさに襲われた。
 偉大なる探偵は机に向かっていた。見たところあまりにも集中していて、彼らが騒がしく入っていったのも、聞こえていないようだった。一同はしばらく動くのをやめてじっとしていた。やがてその背筋をまっすぐに伸ばした優雅な後ろ姿から何かを感じて、博士が急に駆け出した。ちょっと触れ、ちらと見ただけで、博士にはわかった。ヴァランタンの肘の所には薬物の入った小箱が置いてあり、彼は椅子に座ったまま死んでいるのが。そして自殺によって、何も見えなくなった顔に浮かぶのが、カトーの誇りだけに止まらないことも。


(おしまい)

 使用した原典テキストhttp://en.wikisource.org/wiki/The_Innocence_of_Father_Brown/The_Secret_Garden


 本作品が収録されている短編集(「秘密の庭」というタイトルで収録されている。)。
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中村 保男

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