夏目漱石 倫敦塔・幻影の盾

 漱石が猫を「ホトトギス」に連載している頃、並行して執筆した短篇七本を収めたもの。書影は新版になっているが、読んだのは新潮文庫の前バージョンだと思われる。字組が細かかった。
 収録作品は以下(括弧内は初出*1
・倫敦塔(「帝国文学」明治三十八年一月号)青空文庫図書カード
・カーライル博物館(「学燈」明治三十八年一月号)青空文庫図書カード
・幻影(まぼろし)の盾(「ホトトギス」明治三十八年四月号)青空文庫図書カード
・琴のそら音(「七人」明治三十八年五月号)青空文庫図書カード
・一夜(「中央公論」明治三十八年九月号)青空文庫図書カード
・薤露行(かいろこう)(「中央公論」明治三十八年十一月号)青空文庫図書カード
・趣味の遺伝(「帝国文学」明治三十九年一月号)青空文庫図書カード
 現実と白昼夢の往復が全編を貫くテーマかな、という気がした。しかし幻影の盾・一夜・薤露行の三作は白昼夢をそのまま作品化したと言った方が正確で、その外側の世界は、作品単体で見たときには、描かれない。この三作は何をやっているのかも正直よく分からず、読むのに難渋した。解説(伊藤整)によれば二作に通じる美文調は虞美人草でも大がかりに用いられているらしいがそっちは未読。
 気に入ったのは「琴のそら音」と「趣味の遺伝」。解説によると「普通の写実小説の試作と言うべきものであって、それは『三四郎』や『それから』が後で書かれるための準備的な意味を持っているのである。」ということになるらしい。
 「琴のそら音」は家に手伝いに来てくれる迷信深いばあさんが犬の鳴き声がおかしいの、坊さんがこっちの方角はよくないと言ったのと語り手を煽り、インフルエンザで寝込んでいる婚約者の身に何か起こるのではないかという不安を増幅させていく、心理スリラー……と言ったら大袈裟だけど、そういう予感がひたひたとやってくる怖さを描いた作品。全編炎のイメージがちりばめられていて、その一貫性も読み進める興味を起こすのに一役買っている。
 「趣味の遺伝」は書き出しから凄い。

 陽気のせいで神も気違(きちがい)になる。「人を屠(ほふ)りて餓(う)えたる犬を救え」と雲の裡(うち)より叫ぶ声が、逆(さか)しまに日本海を撼(うご)かして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応(こた)えて百里に余る一大屠場(とじょう)を朔北(さくほく)の野(や)に開いた。

夏目漱石 趣味の遺伝

 これはロシア戦争のことを語り手が頭の中で想像しているところで、実際には戦場でなく、東京の新橋にいる。そこで復員兵の出迎え式を見学している。語り手の友人は日露戦争で戦死しており、語り手はこの式を立ち会ったのを機に、亡き友人を偲ぼうと墓参りに出掛ける。友人の墓には先客がいた。美人だ。あの美人は何者か。語り手は好奇心に鷲掴みにされて、調査を開始する。探偵嫌いが有名な漱石だったが、こんな探偵小説を書いているのに驚いた。
 いや本当に探偵小説と呼んで差し支えないと思う。謎が出る。色々な行動の裏の意味があって、文脈が変わる、思っても見ないところに補助線を引いた推論が出る。殺人は起こらないし、犯人も出てこないんだが、謎解きはあるし、謎が解けていく過程のわくわく感もある。クライマックスはここだろう。謎のことを考えながら、研究関連の読書に耽っているが全然集中できず、何が何だかよーわからん状態になってきたよというあと。

仕舞にはどこからが狂言でどこまでが本文か分らない様にぼうっとして来た。この夢の様な有様で五六分続けたと思ううち、忽(たちま)ち頭の中に電流を通じた感じがしてはっと我に帰った。「そうだ、この問題は遺伝で解ける問題だ。遺伝で解けばきっと解ける」とは同時に吾口を突いて飛び出した言語である。

 なんで遺伝で解けるのかは本文を読んでもらうことにするけれども、名探偵の「閃き」が訪れるシーンと通じる場面であることは理解してもらえるかと思う。「こころ(感想)」もミステリ的な読み方ができるなと感じたけれど、それよりずっと前に漱石は自ら「探偵小説」をやっていたんだなあ。「趣味の遺伝」なんてタイトルからは想像がついてなかった意外性も手伝って、実に面白かった。

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)
夏目 漱石

4101010021
新潮社 1952-07
売り上げランキング : 38462
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見る
asin:4101010021 by G-Tools

*1:新潮文庫の解説による