古谷専三『英語のくわしい研究法』

 英語を勉強しようと思ったとき、世の中にはためになる本が溢れている。別段ためにならない本も溢れている。結果選択肢がありすぎて何をやったらいいのか分からないくらいだ。「スタージョンの法則」を持ち出すなら、その溢れかえる本のうち10冊に9冊はゴミである。
 ここに持ち出してきた「英語のくわしい研究法」はどちらか?
 ゴミではない。しかし残り1冊でもない。というのも、この本の価値は英語の参考書という基準では計れないからだ。自分は生まれて初めて英語学習のジャンルに関する本で、本来の意味での「トンデモ本」に遭遇した。
「トンデモ」という言葉はいつの間にやら「デタラメ」という意味に使われているが、もともとは「著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめるもの」という意味である*1
何がトンデモなのか。論より証拠。俺が噴いたところを引用したい。本書は十個の例文を持ってきて、ひたすらそれを解説していくという形を取っている。その二個目の例文の解説が終わったところ。

さてこれで分析研究No.2の私なりの努力をおわったのですが,読者のみなさんには,これは,少しは役に立つぞと思っていただけたでしょうか。いや,それがどうあろうと,私は位下,決意と計画をとにしたがって,少しもたゆまず精進いたします。

 次のNo.3の例文ではまず全訳を示した後で、

これはわかったような,わからないような,訳文みたいだが,さりとて原文に忠実でもないところがありまして,まことにすみません。

 No.4でも、

私はこの項目にひどく骨を折りましたが,読者のみなさんがよく理解してくださったかどうかどうも自信はありません。

 倒置の文の解説では、

目的語が文の先頭に来て、他動詞が後の方におかれるなんてどうも不愉快だと思われる人も多少はあるでしょうが,どうもすみませんと私からおわびいたします。

とこんな感じの文が随所に散りばめられ、地の文は「あります」体で進んでいく。
 著者は明治27年生まれ、こちらのページによると平成三年に亡くなっているようだ。残念。いや本当に残念なのだ。
 この本がトンデモであるのは、著者のくそ真面目さが突き抜けてしまった結果、英語の話なんてどうでも良くなってしまい、ひたすら引用したような「参考書に書いてあっていいのか?」的フレーズを探し始めてしまうからで、こうした本を書ける人はそうはいない。
 取られている手法は王道的な品詞の解析なのだが、そこにも人柄が、というか真面目が極まって狂気に陥るような場が展開される。
 構文の分析というのは、誰がやっても似たような結果になりがちなもので、それは同じルールを使っているからあたりまえなのだが、それでもそこには執筆者の個性が滲む。例えば伊藤和夫なら解説がややこしいところは「いまはこう考えておけば十分です」と、偉そうな(実際足を向けて寝られないほど氏の参考書にはお世話になったので、偉そうなというより個人的には偉いんだけど、)フレーズで打ち切って次に行く。薬袋善郎なら「○○は××です」と矢印と記号を振って次へ行く。大西泰斗なら「これがネイティブのフィールだ」とか言って切り上げる。そこを古谷専三は「ここはご理解いただけましたかどうか、私は大変不安であります」と言わずにいられない。大体似たようなことを説明してるのにこの違い。
 そうした人柄の違いが分析手段にも現れる。伊藤和夫なら簡単なところと判断すればすっとばし、難しいと思われるところは綿密に分析してみせる。そのメリハリが読むものに納得を生む。薬袋善郎はその分析を図で行うことで分かりやすさを感じさせる。どちらも内容同様に見せ方への気配りがなされているわけだが、古谷専三にそんなものはない。彼の分析は例えてみるならば、英文という野菜を片っ端から千切りにしていくような徹底ぶりである。だって全単語品詞分解してるのよ、後半。細かくてごめんなさいって言いながら。そして十個の例文に名詞が何個あってそのうち主語は何個でって始めるわけ。俺にはその辺が、もう愛すべき堅物って感じでたまらなかったね。
 ところで本書は売れていない。手元にあるのは先日購入したばかりの本なのに、平成元年の第七刷りだ。初版は昭和五十四年。よくも出版社は絶版にしないものだと感心する。いやしちゃ駄目なんだけどね、個人的には。
 なんでこれが売れないかという理由は明白で、ターゲットになる受験生が求めているのはホッとする笑いなんかではなくて、何が正解で何が不正解なのかの明瞭な基準だ。本書はそこらへんを語り口で大損している。おまけに品詞分類の基準が類書と少しずれていて互換性に欠ける。これもまた著者の真面目さゆえなんだけど。
 そんなわけでギスギス勉強する必要のない人に読まれて欲しいと思う本だった。
 それはそうと、互換性ということに関していえば、自分の知る限りゆとり教育の影響は凄まじく、前置詞という言葉を聞いたことがない高校生などはざらにいる。それと遠からずやって来るといわれる大学全入時代の訪れがあいまったとき、受験参考書というジャンルにもメルトダウンがやってくるのかもしれない。完全自動詞、不完全自動詞、完全他動詞、二重目的の他動詞、不完全他動詞なんて用語を乱発する本書を読みながら、そんなことも考えた。

追記:09.01.26
 近所のジュンク堂で本書を見かけた。それも数冊。増刷もかかっていた。なんだか嬉しくなった。
 このエントリ自体も地味に読んでくれる人がいるみたいで嬉しい。


英語のくわしい研究法

*1:トンデモ本の世界「はじめに とはトンデモのと」参照。