鴎外訳「ファウスト」が出来たわけ

 新編明治人物夜話より。
 1911(明治四十四)年、文部省内に文芸委員会というものを作ろうということになり、委員が定められた。
 メンバーは森鴎外上田万年芳賀矢一、藤代禎助、上田敏姉崎正治幸田露伴徳富蘇峰、佐々醒雪、巌谷小波伊原青々園大町桂月塚原渋柿園饗庭篁村、足立北鴎、島村抱月の16人。幹事は文部省次官の福原鐐次郎。
 この話が世に出るや、夏目漱石が噛みついた。

もし文芸院がより多く卑近(ひきん)なる目的を以て、文芸の産出家に対して、個々別々の便宜を、その作物(さくぶつ)上の評価に応じて、零細(れいさい)にかつ随時に与えようとするならば、余はその効果の比較的少きに反して、その弊害の思ったよりも大いなる事を断言するに憚(はばか)らぬものである。

夏目漱石 文芸委員は何をするか

 そんなことを言われても発足してしまった以上、何かしなくちゃならないってんで、その年に出た文芸書から優秀作を選ぼうということになって、候補作品を選定した結果、候補に挙がったのは、
」(夏目漱石
」(島崎藤村
「微光」(正宗白鳥
「すみだ川」(永井荷風
春泥集」(与謝野晶子
 沙翁劇諸作(坪内逍遙訳)
プラトーン全集」(木村鷹太郎)
(リンクは作品テキストにリンクしてます。)
 この中で光っているのはキムタカこと木村鷹太郎だなあと個人的には思うが、結局委員間の意見調整ができず、該当作なしという結果になってしまう。
 これを受けて明治四十五年三月四日の読売新聞が「やっと安心」という漱石の談話を載せた。
 以下、明治人物夜話より孫引き。

実は先刻私の作物が選奨されたということを聴いて、甚だ困ったと思っていたところである。困ったというのは、第一に、私は先に博士の学位を返したが、文部省の方では、出した辞令を引戻すことが出来ないというのだから、今回選奨されたとすると、無論辞令に文学博士として記入されるだろうし、そうするとやはり貰うわけには行かない。第二に、私は文芸委員会に、元来主義として反対しているのだから、それから選奨を受けることは出来かねる。第三に、美術展覧会の方は賞状ばかりだが、この方は金がついているので、自分からいっては変だが、相当に暮らしている者より外の比較的困っている人たちへ分ける方が当然だと思うから、これを受けることは出来ぬ。要するに以上三点を打消した上でなくては、私は受けることが出来ないし、かつ現に小説を書いているので、そういうことに頭を使うのは、甚だ困ると思っていたが、選奨した作品がなかったと聴いて、先ず安心した。もっとも私といえども、選奨されれば無論感謝する。また一方からいうと、元来文芸院に反対な私の作品を選奨するのも、ちょっと変なことだと思う。私は無論選奨のために提出もしない夏目の作品だけは、除外例として選奨しないことにしてくれると面倒がない。とにかく今回選奨された作品がないとすると、それは今の作品は大した甲乙がなく、あるいはいずれも傑作ばかりといっても差支えなく、やはり私の意見通り、それらの作品に皆五十円ずつでも頒かった方がいいと思う。

 で、こんなことを言われた賞金の行方はというと、功労賞として坪内逍遙のところへ行き、逍遙はそれを二葉亭四迷、山田美妙などの遺族に転贈したのだとか。
 このままではいかんと文芸委員会は次にまだ日本で翻訳されていないヨーロッパの傑作を刊行する計画を立て、その第一弾に選ばれたのが「ファウスト」と「ドン・キホーテ」だった。訳者はそれぞれ森鴎外島村抱月
 しかしこれもまったく続かず、以下の続刊はなしで、このあと文芸委員会は活動らしい活動もせず、任期切れで解散。いったいこいつらなんのために出てきたのかという気も流れとしては見えてしまうような気がするが、鴎外の訳した「ファウスト」成立事情として見るとなかなか面白い。むしろこの一冊を作るためのドタバタが文芸委員会の設立から消滅に至るすべてなのではないかとさえ思われてくる。
 ネタもとの「明治人物夜話」は森銑三という人の書いた本で、あれこれの文書を縦横に引用・紹介することをメインにしたもので、外にも幸田露伴の逸話、「天下の記者山田一郎」などが面白い。地味ながら良い本だと思うっていうかまだ読んでる途中なんだけども。