ヌラヌラの初出

 今年に入ったあたりから万年筆が好きになって、「趣味の文具箱」なんかも覗いているのだけど、書き味「ヌラヌラ」という表現がやたらと目に止まる。ふーんと思って見ていたが、このヌラヌラという言い方は山口瞳が言い出したものだというのを見て、にわかに「どこにその文章は書かれているのだろう」と気になりだした。言い出した人まで限定できるなら、おそらく初出だって分かるはずだろう、すくなくとも収録された本のタイトルくらい分かるだろうとググッてみたのだが、誰も出典を教えてくれない。
 で、なら自分で調べればいいんだよね、と山口瞳の代表的エッセイ「男性自身」に出ているんじゃないかなと予想して、まず傑作選の目次を見てみたが、それらしいものは収録されていなかった。考えて見れば、日に日にデジタルに向かう時代に選ばれた傑作選に万年筆の話は収まらなくても不思議はない。つーことで古本屋に行ったときには山口瞳の棚も覗いていたのだが、なかなか当たらない。
 しかし今日近所の図書館に行ったら「変奇館の春」というエッセイ集に「万年筆売場にて」というものが入っていて、おお、これじゃね、これじゃね? と胸ときめかせながら、ページを捲った。山口瞳が良いと思う万年筆は国産ならパイロットの太書き、しかし寿命が短いのが不満なんて話が書かれたあと、山口瞳が万年筆に求める条件のくだりで「ヌラヌラ・スルスル書ける」というのが出て来た。おお、見つけたよ! とちょっと感激。
 しかしみんなが使うようになった「ヌラヌラ」という言い方よりも印象深かったのは、試し書きの話。「自分が普段使っている原稿用紙を持って行け」という万年筆の雑誌なんかにも書いてある(できないけど)アドバイスのあとで、山口氏が試し書きをする場面が出てくる。普通は「裁」とかを使うものとされているのだが、山口瞳はそんな文字は使わない。氏の書いた試し書きの文はこれ。

この万年筆は悪い万年筆である

 モンブランか何かで延々とこれを繰り返し、店員が噴き出したと書いてあった。ヌラヌラくらい普及してくれたら、あちらこちらで楽しい試し書き風景が(場所によっては喧嘩が)起きたのではないかと思った。

 ちいともまとまらないうえに、ちっとも面白くない話ではあるけれど、この一ヶ月くらい、暇があると探していたエピソードを見つけられて嬉しかったのでメモしておく。

追記:うわ、ウィキペディアのソースになってる。誰かの役に立つなら嬉しいけれど、「山口瞳が言い出した」というところは鵜呑みにしているのと、この記事の精度自体、大したものではない(例えば、「男性自身」を全部読んだとかそういうことはしていない)ので、さらに時期を遡った出典(例えば山口瞳じゃない人が使っているものとか)のある可能性も考えられることは補足しておきたい。(追記2015/07/25 あら、いつの間にかウィキペディアのソースから外されていた)

追記:2009.0126
 先日(といってもかなり前だ)「趣味と物欲」というブログからトラックバックをいただいて、上記エピソードが梅田春夫の「The万年筆」にも取りあげられていると教えていただいた。そこには、

どうも気に入った万年筆の無い山口さんに対して、梅田晴夫さんは十年以上使っている逸品を二本持って行くのだが、それでも気に入らないと言われ、怒り心頭のあまり、最も愛用している一本を示し、これでどうだとつきつけると、やっと、これが僕のいうスルスル、ヌラヌラだとニッコリ笑うので、ホッとしてついあげてしまったという、微笑ましいエピソードも書かれていました。

 というようなことも書かれているらしい。
 そのエピソードは山口瞳も「万年筆その後」というエッセイ(新潮文庫「生き残り(amazon)」所収)で言及している。それによると、梅田晴夫が持ってきた万年筆はモンブラン(こちらでは一本で、それは会社に持ち込まれたと書かれていた)で、しかも山口瞳が使っているのと同じ品。で、慌てて「シャーロック・ホームズの家」のような梅田晴夫の事務所に赴き、礼を言い、しかるのちに「梅田さんのくださった万年筆は、私において十全であるとは言い難」いことを率直に告げた。そしてそのあと、

 しかるに、ありえないと思った万年筆があったのである。梅田さんは、こんなのはどうですかと言って、旧式のパーカーを持ってこられた。これぞ万年筆であった。私の志向するものであった。百点満点とすれば九十九点だった。戦後の品であろうけれど、かなり古い。インクは井戸ポンプ式に吸い上げる。
「パーカーは、案外にいいのがあるんですよ。この万年筆の難点は、インクがたくさん入らないことですが」
 私はそれを頂戴することにした。もちろん、最初は遠慮した。しかし、私の顔は、私の言葉を裏切って、ほしくてほしくてたまらない顔をしていて、梅田さんがそれに負けたのだと思う。

 モンブランをもらったあと出掛けていって、それにケチをつけ、パーカーまでせしめてくるっつーのが、すげえ。
 しかし梅田晴夫も趣味人の意地に賭けて山口瞳を満足させてやりたかったに違いなく、満足して帰った山口瞳の後ろ姿を見送りながら、鼻息も荒く「どうだい」とにんまりしていたんじゃないかなと想像する。
 ちなみに山口瞳の証言によると、99点のパーカーをもらって帰ったのは、梅田晴男が他に「九十九・五点のオノトを持っておられて、そのほかにも、垂涎(すいぜん)三尺という万年筆をいくらでも持っておられるように思われたからだった」とのこと。さすが万年筆作りにまで口を出した人は違うね。

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山口 瞳

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