佐藤卓己 輿論と世論―日本的民意の系譜学

 輿論と世論という言葉は現在、同じように「よろん」と読まれる。これは戦後の漢字制限で「輿」の字が使えなくなったことに端を発する現象で、本来「輿論」が「よろん」と読まれ、「世論」は「せろん」と読まれ、使い分けがされていた。1888年発行の「漢英対照いろは辞典」では「よろん(輿論)=public opinion」、「せいろん(世論)=popular sentiments」と訳語が附されているそうだ。これが戦後段々に混ざり合い世論=輿論へと動いていく歴史が、本書では詳述されている。データの示し方やそのデータが見せる意外性というのは、「8月15日の神話(関連記事)」と同様、スマートかつ刺激的。とにかく調査が綿密だと感じさせてくれる。
 個人的には佐藤の射程というのは歴史面した神話の解体なのだと理解している。特に戦前と戦後が別物という歴史観を引っ繰り返す論は一貫していて、非常に読み応えがあるし、その先に聖域なき歴史学みたいなものが出現するなら素晴らしいと思うってこれは本書への感想とはずれた。

 著者が本書で訴えるのは輿論と世論を使い分けることだ。「世間の雰囲気(世論)に流されず公的な意見(輿論)を自ら荷う主体の自覚が、民主主義に不可欠だ」と著者は言う。
 抽象レベルではまさにそのとおりだと思うのだが、「理性的輿論」と「感情的世論」の区別をどうつけていくのかという具体的な落とし込みがなされていないのは、肩透かしを喰った気分。いやサブタイトルに「日本的民意の系譜学」ってあるし、それを描写してみせることが本書の主眼なんだろうから、ないものねだりにすぎないし、そんな基準が声高に書かれていたら、本書の価値は暴落するとは思うんだけど、問題なのはみんな理性的な判断を下していると思っていることなんじゃないかという印象が強かった。これは自分も含めてだけども。
 しかしそういうリテラシーの問題は輿論と世論の系譜の問題とはちょっと離れるのかもしれないな。
 もういっこわからなかったのは、輿論とは世論を作るものであるという理解で良いのかということ。これは本書にそう書いてあったのではなくて、俺がそう読んだということなんだけども。それとも輿論か世論かというのは発信の問題じゃなくて受信の問題なんだろうか? とするなら、「いま目の前にあるものを輿論と書くべきか、あるいは世論と書くべきかを絶えず自らに問いかける思考の枠組みが不可欠なのである。」は書くではなくて読むとされてなければいけないんじゃないか。「輿論復権」というのは理性的な意見を吐けるかではなくて、理性的な意見かそうでないかを読み分けるところから始まると、いまこれを書いていて思った。たぶん著者は「空気を読む」という言葉の逆を行きたくて「書く」を使ったんだろう。

 ところでそういう理解をするなら、輿論と世論の区別をしましょうというのは、格別新しい話ではなくなってしまうし、問題なのは自分の支持する意見が輿論であると確かめるのに、どうしたらいいかということになる。
 もちろん、そんなもんは個人個人が手探りしていくしかないんだけどね。本書の結論も「手探りを忘れないようにしようね」ってパラフレーズできる気がする。

追記:090306
 輿論を建前、世論を本音と理解するよりも、輿論をテーゼ、世論をアンチテーゼに置き換えると、すっきり整理できるような気がふとした。足りないのは止揚か?
 そのモデルで読むと、この本はテーゼがなし崩しに潰れていく過程を跡づけるものなのかもしれない。そう考えると、確かに「甦れ輿論」なのかも。

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