佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と国防国家』

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)
佐藤 卓己

4121017595
中央公論新社 2004-08
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by G-Toolsisbn:4121017595
 本書がスポットライトを当てる鈴木庫三という人物は戦前の言論統制を担っていた人物。なので戦後、彼は悪玉として言論統制史において叩かれ続けてきた。しかし鈴木庫三を研究した史料はほとんどない。著者はその現状に違和感を感じ、鈴木庫三の研究に手を染めた。その結果現れたのは、通説がウソと歪曲と勘違いと怠惰に彩られていると言うことだった、という話。
 たとえば鈴木庫三の名前を言論統制の親玉として定着させたのは、戦後石川達三によって書かれた「風にそよぐ葦」という作品で、これが映画化されたあと、鈴木の名前は頻繁に登場するようになる。イメージのオリジンはフィクションだったのである。
 なぜ編集者や作家はウソをついてまで鈴木少佐という悪役を必要としたのか。それは戦争に協力的だった自分たちの臑の傷を隠したかったからだ。
「風にそよぐ葦」を書いた石川にしても同じだった。石川と言えば、「生きてゐる兵隊」(1938年)という「反戦」小説が有名なこの作家はしかし、「実践の場合」(1943年)でこう書いている。

極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ。さういふ小説は芸術ではないと言はれるかも知れない。しかし芸術は第二次的問題だ。先づ何を如何に書くかといふ問題であつて、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣伝小説家になることに悲しみを感ずる必要はないと思ふ。宣伝に徹すればいいのだ。

 当時を生きた知識人や文化人の多くはこれに類する発言を残してしまっている。それに対する言い訳として召喚されたのが「鈴木庫三」という怪物だった。
 本書では主に鈴木の日記を資料として、こうした言論統制伝説の批判が行われている。それと同時に教育者としての鈴木庫三を掘り起こしている。そこから浮かび上がる言論統制史は現行のステレオタイプよりも説得力がある。
 が、日記という資料を用いて、鈴木庫三という人物の見直しを意図した本書はそれゆえにどうしても鈴木よりのスタンスを取らざるを得ない*1。さらに戦後の言説への批判も「悪役は本当に鈴木だったのか?」という問題を提起しているはずなのに、「言論統制」というタイトルが、鈴木より大きな範囲への疑問に読み取られうる危険をはらんでいるようにも思う。貴重な研究ではあるものの、受け取るときに多少の慎重さが必要となるだろう。
 それにしてもせせこましい保身からでた浅ましいウソの影響力は凄いものがある*2。最大の問題は、ウソで塗り固められた過去と較べれば、どんな現状もたいしたことがないように映る点で、この先言論統制が緩やかに復活したとしても、我々は偽りの過去と比較して「これくらいは仕方ない」と思えてしまうかも知れないのだ。メディアの重要性は、それを叫ぶ人たちにすら理解されていない。
 それと、この鈴木日記が貴重なのは、軍隊の中にいた人間による軍隊への不満が記録されているところで、たとえば扶桑社的な歴史観ともこれらの記述は相容れない。大東亜共栄圏という理想と、大陸へ進出していった日本人の横暴の両方が記録されているところは、実は読み落としてはいけない部分だろう。難しいことにウソの反対は本当ではない。

*1:だから強調されるのは鈴木の誠実な人柄なわけだけれども、誠実だの真面目だのって、利用される方向を誤ったときには中途半端な性質よりもよほどタチが悪いこととかは、目を瞑られているように思う。それと他の人びとのウソには敏感な著者が鈴木の日記には演技性をほとんど見ようとしないところなども、やはり鈴木への共感が先にあるんじゃないかという気がする。

*2:裏を取らず盲進した歴史家たちの仕事も通説の保存に一役買っていることは間違いない。なんのための専門家なのか。