個性の話・2

 先日こんな記事を上げた。
個性の話
 この中で俺は「個性とはたぶん認めるものなのだ。プラスの意味のラベリングとして。だから個性の話は「いかにして自分と違うものを認めていくか」という話で語るものではないかと思う。」と書いた。それからこの記事を読んだ。(「個性マーケティング戦略」と「キャラ化」と「私たち」

彼らのいう個性とは自分に内在する何かではない。自分の外にある何かなのだ。個性というあやふやな自分だけのものを探すより、すでにあるキャラをかぶった方が効率がいい。

キャラはパッケージであり、一から個性を作る苦労に比べたら、楽ちんであり、学習も容易であり、コミュニケーション作法も教える必要がないわけで、コストが小さくなる。

また、彼らは、「一人っきり」という状態を極度に怖がる。個人主義的な個性において、「一人っきり」であることなんて、成り行きであり得ることであり、耐えなければなれない試練だった。しかし、彼らは断固拒否する。一人っきりではなく、検索で見つかる、少数の「私たち」を発見して、安心し、それに所属することを望む。

 キャラはパッケージであり、ってところに「なるほど」と思った。それから「私たち」こそ私の個性を表現するものだという点も、「へえ」と思いつつ、「友達を見ればその人が分かる」みたいなことわざがあったのを思い出して、案外新しくない話かもと考えたり。いや個性→キャラへの移行に「パッケージ」という要素があるという話は今まで聞いていたのに憶えていなかったか、聞いたことがなかったかして、非常に新鮮だった。
 それからこの学部生の話、

現にうちのゼミの学部生で、「自分の個性はまわりに決められたもの。自分の内面には存在しない」と言い張る人(K君)がいる。彼は、自己の個体とフィクションの個性とのズレは見ない、気にしないと決め込むらしい。その方がコミュニティにコミットメットし続けることが可能だろう。しかし、そのズレこそ、不良債権のように残り続けるのかもしれない。

 は、つまり「本当の自分」っていうのが痛いってことになったあとのコメントらしいなあとも感じられた。どれくらい肩肘張って言っているのかはわからないけれども。
 ところで俺は、個性の話を「「いかにして自分と違うものを認めていくか」という話で語るもの」とか言っていたのに、この引用部分に「実際そうなのかもしれないが、肯定的に捉えることが出来ない何かがあるなあ」と感じたのだった。
 それは何だろうと考えてきて、なんとなくまとまってきたのだけれども、内田樹の「私家版・ユダヤ文化論(感想)」に引用されたサルトルの言葉に「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。」というのがある。俺はこの「他の人々」をマジョリティ、「ユダヤ人」をマイノリティと読み取ったわけだが、ある人間が「自分の個性はまわりに決められたもの。自分の内面には存在しない」というとき、それは恐ろしく暴力的に感じられる。もちろん言った人間は半分ネタなんだろうし、「自分に凄く良いラベリングをして勘違いを露呈させたり、本当の自分を分かってもらえませんなんて痛い発言しませんよ」くらいの意味を持つのだろうけれども、俺が個性の話を書いたときの個性の意味では、これはとても掬い取れない。なるほど個性からキャラへとはこのことかと思わされた。って、そんな深刻な口調で読まないでね、この辺。
 で、分析が正しいか間違っているかはともかく(たぶん合ってるんだろう。説得力あったし)として、俺は80年代個性教育出身なので、この人間を指す「キャラ」って言葉が大嫌い。特に感じられる個性って言葉との違いは、名指しされる対象に向けられる視線の位置だ。どう考えても上から目線(使用になれた人ならそう思わないかも知れないんだけど、使ってない人間的にはどうしてもそう感じる)で、役割を決めつけているような気がする。いじられキャラとかね。そしてキャラという言葉には名指しされた人間を呪縛する力があるような気がする。ちょっと普段と違うことすれば「あいつ、あんなキャラだったっけ?」みたいな。挙げ句、本人が普段と違う行動に出ようとするときにも「俺、そんなキャラじゃないし」と躓きの石になる。個性→キャラへの変換はなんと不自由な縛りを生んだのだろう。
 もっとも、そういう縛りはキャラ以前にもあった。「タイプ」とか「○○な人」とかいう単語は上の例のキャラと交換可能だ。問題は「タイプ」→「○○な人」→「キャラ」という変遷で来た縛りの概念が「個性」という単語から変遷したとされているところって、あれ、こんな話をするはずじゃなかったぞ。
 で、個性→キャラという変遷ルートが認められるとするなら、そこで切り捨てられるのは、ある個人の場における多様性だ。ある人はいつも同じ言動・行動・立ち位置を要求される。空気を読めってのと組み合わされると、「場に合わせてかつ自分の身分をわきまえろ」って話なのかなあと、空気なんてのの中に滅多にいない俺は思う。ついでにキャラが被ってはいけないというのも、相当な危機意識というか、群れの秩序を守ることが第一義というか、大変だなあと思われる。
 これがお笑いの人であるなら「痛いキャラ」認定されようがいじられようが、話題に取りあげられ得てありがとうございますという話。あの人たちはまさに「キャラ」を商品にして商売をしているのだから。しかし引用先で取りあげられているようなコミュニティにおけるキャラは認められることで何を得られるかって単なるコミュニティにいていい権利だけなんだよね。それをエサにして、都合良くキャラ付けとかやっちゃって盛り上がる精神は、理解は出来てもうんざりさせられる(追記:改めて考えてみると、うんざりの対象は「都合良くキャラ付けとかやっちゃって盛り上がる精神」に向けられているわけではなくて、それしかありえないような状況の方に向いているのだった。ここら辺そのうち修正するかも知れない。)。それならむしろ別コミュニティの人たちから痛いねって陰口叩かれならがひとりでいる方が気分が楽なんじゃねえかとかなり本気で思ったりするわけだが、そうでもないというのは発見だった。
 それと同時に、引用先のエントリを読んだおかげで、「個性の話」を書いたあとに気になっていた「人の自分と違うところを認めたとして、認められた方がそれを妥当と考えない」場合はどう処理するかという点に、ちょっとした視点の変化があった。上でキャラってやだなあとか言っておきながら、俺も個性→キャラの流れでものを考えていたらしい。
 実はさ、個性ってひとつじゃなくてもいいんだよね、たぶん。
 俺もさっきそう思ったばっかりで、そういう風に個性を捉え直すとどうなるのか、見えてないし、どうにもならないのかもしれないけども、たとえば本当の自分とかで悩んだ人たちは自分の個性を「ひとつ」って思っていたんじゃないかという気がする。だから人から「そういうところが個性だよねえ」と自己イメージが違う場合に、そのふたつがぶつかって二者択一気分になって「分かってもらえない」と感じていたのではないか。
 こういう意味で捉える個性はやっぱりキャラとつながっていくものになるかもしれない。「○○って××だよね」の乱暴さはそこから掬い取れないものを捨象する。言われた方も膨大な自分データに照らし合わせて「自分は××ではない」と考えざるを得ない。そんな一貫性が自分を見たときにはないからだ。
 しかし個性がひとつじゃなくても良いなら「そういうところが個性」という言葉は「○○は××だ」ではなくて「○○には××なところもある」となり、そういうところはある人のオプションのひとつということになる。もちろんこれは名づける側からすれば、キャラの方が効率も良くて便利なんだけども、俺としては他人をキャラとして捉えるよりも、このオプションを発見していく見方で見る方が楽しい気がする。言われたときにも「そういう面もあるんだね」程度にとって、全体イメージに要素を足し算していく方が、毎日を自由に生きられるような気がする。
 あえて言ってみる。世の中は自分も他者も足し算で見るようになっていくべきである。
今の若者はキャラと空気読むんだよ、っていうかもう世の中そうなってて、創作する奴もそういう空気を読んでポジション取るしかないんだよと「リアルのゆくえ(感想)」で東浩紀は言っていた*1けど、思想を紡ぐ人は新たな地平を切り開くべきっつーか、現状追認以上のことをするべきなんじゃねえかと思う俺にとって、思想地図なんて出してる東より、「ガキが空気読むなら、大人は夢と希望にあふれた空気を撒き散らせ」と言えるコンビニ店長の方が、よほど思想家に思われる。
 なんか長くなったな……。
 ひとまず「「個性マーケティング戦略」と「キャラ化」と「私たち」」を読んだのをきっかけに、色々考えられたことに感謝して、この稿ここまで。


 ……あ、東浩紀、そもそも思想家は名乗ってなかったや。ごめん、難癖だった。

*1:読み直さずに書いているので間違っていたらごめんなさい。