個性の話

 こんな記事を読んだ。
『使えない個性は、要らない個性。』

 21世紀が始まった頃、個性がやたらと礼賛された時期があった。

 一文目からのけぞった。高校時代に「個性とか言ってるけど馬鹿じゃね?」と友人と話した記憶があるので、90年代前半にはもう批判期に入っていたと思うんだけどな*1。違ったのか? まあそんなことより本文である。

 どうやら、実社会の世界では『使えない個性は、要らない個性』だったらしい。
 社会や他人から求められることのない・期待されることのない個性など、いくら個性的であっても省みられることはないし、スポットライトを浴びることも無い。そればかりか、当人の自意識ばかり肥大化させる、不良債権のようなものに成り果ててしまった。
(中略)
話はビジネスの世界だけに留まらない。プライベートな人間関係のなかでさえも、コミュニケーションのやりとりに乗ってくることのない・乗ってくることの出来ない個性は“選ばれない個性”として敬遠される。需要と供給のバランスシートの上に成り立っている人間市場のなかでは、“買い手のつかないような個性”“おいしくない個性”に手を伸ばしたがる人間なんて誰もいない。

 だって、考えてみて欲しい。あなたが友達にしたい・恋人にしたいと思うのは、出来るだけ個性的な人間だろうか?そうではあるまい。自分にとって望ましい、好ましい個性を持った人間のほうではないだろうか。少なくとも私はそうだ。どれだけ極端に個性的な人間であったとしても、それが自分のニーズに合致しない限りは、“どうでもいい個性”だし、自分のニーズを阻むような個性であれば“邪魔な個性”ということになるだろう。一見、ひたすらに個性的な人間を選んでいるようにみえる人でさえも、よくよく観察してみると、この手の選好の形跡がみてとれるものである。

 個性をむしろ殺して“花屋に並ぶ花”となるのか?

 それともナンバーワンを目指して修羅の道を目指すのか?

 『世界にひとつだけの花』とは対照的な、容赦ない娑婆世界が、眼前には広がっている。そして、“花屋に並ぶ花”にもなれず、ナンバーワンになることも出来なかった者達の怨嗟の声が、今日もインターネットに響きわたる。

 『使えない個性は、要らない個性。』

 この、目を覆いたくなるような娑婆の現実から敢えて目を逸らして、飽くなき個性の肯定を叫んだ人達の功罪や、いかに。

 俺が、こんないつでも言われていることに反応してしまうのは、個性個性言われた時代の空気を肯定的に捉えて育ってきたから何だろうと思う。「個性とか言ってるけど馬鹿じゃね?」と言った高校時代の俺は、そんなこと言っても個性尊重みたいな風潮はずっと続くんだろうとお気楽に考えていた頭の悪いお子様だったのである。まあそれはさておき。

 引用エントリには大量のブクマがされて、トラックバックも飛んできている。みなさんいろいろ面白いことを言っていてほうほうと読んだ。いくつか引用。

要は、みんなと同じことをしているのに、ほんのちょっとした差異を「個性」だというのはやめにして、他人の個性を大事にするのもやめにすればよいのだと思います。それは単なる「好み」とでもラベルしましょう。他人が大事にしてくれるような個性は、自分にとっては要りませんし、その他人にとっても不必要。他人が大事にしてくれないような個性こそが、自分が大切にすべき個性ですが、使えるようになるかどうかは、運次第。その運を高めるために、ちょっと戦略的に自覚的に動いてみましょうか。

ということではないかと思うのですが。

個性にまつわる勘違い - 常夏島日記

個性なんて、病気みたいなもんで、そもそも必要のないものです。

要るとか、使えるとか、役に立つとか、そんな個性はあり得ないです。

役に立たない個性を比較して競争するなんて遊び以外でやるのがおかしいのです。

仕事と結びつけるのが間違ってるんです。

NaoK un for get table 1991

個性とは、ハルキ的に言うなればユニークなソウルなのです。

だからね、大事なのだけど経済的に価値があるとかそういう問題ではないのです。

個性なんか誰にでもあるもの、百人いれば百人持ってます。

それは良いものばかりではなく悪いものもあります。

ただ、それは一つ一つかけがえのないものであるのは間違いないのです。

と、まぁ脊髄反射的に書いてしまいました。

個性など誰にでもある - otoosan0の日記

 そもそも、個性というのは究極的には個体差です。個体差がなければ生物は環境の変化に耐え切れず絶滅してしまいます。ひとりひとりの個性に価値があるのではなく、ひとりひとりに個性が存在しているということに価値があるのです。

ひとりひとりの個性に価値があるのではなく、ひとりひとりに個性が存在しているということに価値がある - うるち随筆

個性(人格)は優劣をつけられませんから評価はできません。個性(人格)は「認められるもの」です。
他人の個性を目の前にして「あなたは個性的な人だ!」とか「あなたの個性は素晴らしい!」などの評価をする必要はありません。また、必ずしも肯定する必要もありません。
その人がそこにいることを、笑顔で受け入れてあげるだけでいいんです。存在を肯定してあげる。少なくとも否定しない。それだけで人は満足できます。逆に存在を否定されると、人はあらゆる手段でその状況を覆そうとします(怒る・逃げる・病気になる等)。その力は絶大です。

http://ymsr.net/2009/personality/

 色んな視点があって面白かった。
 個人的には個性と言われると思い出すのは漫画「フルーツバスケット」のおむすびの話。キャラも話の流れも忘れてしまったが、個性というのはおむすびの具のようなものだと書かれていた。そしておむすびの顔は具のない方で、他の人から「きみの具はこれだよ」と言われるまで、本人には分からないということになっていた。
 俺はこのおむすび以上に素敵な個性の定義を知らない。
 引用した中だと、「店長の勉強記録」さんの言っていることがいちばん近いだろうか。
 あるんだかないんだか自分では分からない個性は誰かが発見しなければ、捨てるまでもなくないものになってしまう。だから「フルーツバスケット」では「後ろに乗っている具」になるし、「店長の勉強記録」では個性は「認められるもの」として定義されている。
 俺はもう一歩「個性」の定義を進めてみたい。個性とはたぶん認めるものなのだ。プラスの意味のラベリングとして。だから個性の話は「いかにして自分と違うものを認めていくか」という話で語るものではないかと思う。個性という単語がなまこのようにとらえどころがないのは、個性と才能と能力と適性とあれやこれやをごたまぜにした挙げ句、大抵の人が自分にもよく分かっていない「自らの個性」というのを見つめながら話すからじゃなかろうか。そんな自分にもつかみどころがないものを他者からどう認めてもらうかと考えても、「娑婆にはそんなもの必要とされていない」という結論になるだけだろう、確かに。そしてそんな話ならもう語り尽くされている(そして忘れきられてもいる)。あまりにもとらえどころがないからだ。
 しかし自分と違う誰かの自分と違うところであるならば、具体性を持っているし、それが受け入れるのになんらかの抵抗を覚えるような場合、いかにしてそれを認めていくかということを考えるのは、まだ語り尽くされていない切り口のような気がする。そもそも個性って、対子供の言説的には「大人が価値をおいてないところにある子供のなにかを切り捨てないようにしましょう」くらいの意見だったんじゃないかと思うし。
 だから個性を語るときには、他人の個性について考えるのがいい気がする。社会からのニーズに照らしてっていうんじゃなくて、自分はある人間のこういうところが個性だと考えるみたいな表明をどれだけしていけるか。自分の認められないものを他の誰かがプラス評価することにどれだけ大らかでいられるか。個性が重荷にならないで生きていくには、この部分がどうしても必要になってくる。
 じゃあどうしたらそれができるのか。俺にはまだその答えが見つかっていないんだけども、他人にうかつな全肯定や全否定をかまして、もうあとは顧みないっていうやり方を取らないようにするところから始めていくのがいいかなと、いま2分ばかりモニターの前で考えて思った。再評価の可能性を残しておくことが大事なんじゃないかと*2

 ところで、なんとなく、勘違いかもしれないが、個性の話をするときって、個性のことをやたらに脆いものとして扱う気がするんだけども、なんでなんだろね。

関連エントリ:個性の話・2  

*1:昔も今もそんな独創的な発言が自分に出来ると思わないので、当時どっかにそういうソースがあったはず。←野島ドラマとかかもしれない。そういや野島はドラマ「プライド」でもオンリー・ワン批判をキムタクに喋らせていたなと寝て起きて風呂に入っていたら思い出した。

*2:俺は人を評するのに「キャラ」という言葉を使うのに抵抗があるんだけど、それは「キャラ」が固定を強要した単語に感じられるからだ。生きていればあれこれと言うこともやることも変わるはずなのに、「キャラ」という言葉は、一度くっついてしまうとそれ以外の要素を捨象する強さを持ってしまう気がする。その方が効率は良いのは確かだけど、遊びのない窮屈さを感じる。