霊薬十二神丹

  上杉家家臣の平田助次郎は十五の頃、喧嘩で男根を切り落とされるが、弟伊織が用意した十二神丹という霊薬の力で切り落とされた男根はもとの場所に無事貼り付き、以来何十年も容姿は若者のまま主君の寵愛を受け、戦場での活躍もめざましい生涯を送る。と、筋だけ見るとどうでも良い話なんだけれども、石川淳の手にかかるとなんとまあ、素敵に仕上がることだろう。構成が云々ではなく、単語をどう連ねるかという一点に関して本作は傑作だ。ページをめくるのがもどかしくなる、わけではない。たゆたうペースで文字列を読み進めるのが気持ちいいのである。
 もちろん趣向としても面白い点があった。それはたとえば導入部だ。本作は著者が以前、旅行した折、茶店の主人から聞いた口碑をもとにしたと書かれている(たぶんフィクション)が、それをどうやって思い出すかというところ。

 さて、こういう無用の小事を、何十年後の今になって、どうしておもい出したものか。これもみな腹痛のせいである。むかしの腹痛ではない。暑中の生水にあたったのと容態は全然ちがうが、ちかごろのことで、わたしの胃はどうもぐあいがわるく、しぶしぶと痛む。(中略)やっぱり胃がちくちくする。とたんに、わたしは何十年かまえの腹痛のことをおもい出した。いや、その痛みのことではない。そのとき茶店に備えてあった丸薬をのむと、たちまち痛みがぴたりとおさまったことをおもい出さないわけにはゆかなかった。

 と言ってこの一篇が始まるわけだが、これはたぶん紅茶にマドレーヌをひたしたら〜のパロディだ(と思った)。同じことを腹痛を契機にしているところが俺には非常に面白かった。しぶしぶ痛む腹痛であの頃をすっかり思い出しましたって、なかなか書けるもんじゃない気がするんだわ。

 で、そんな枠を忘れて愉快に物語が進んでいき、主君上杉景勝が亡くなる。その場面も「あんた、さらりと何を書いていらっしゃるんですか」と久々に思った。

 それから十年、助次郎が五十三歳になったとき、景勝は病没した。記録によれば、景勝の没年は元和九年、六十九歳としてある。景勝は死んでも、山城はまだ生きのこっている。ところで、ふたたび記録によれば、不都合(ふつごう)にも、山城はこれよりさき元和五年六十歳をもって没したことにされているようである。しかし、一般に記録というものはつねにかならず信ずべきものだろうか。ここに、わたしはむかし聞かされたはなしのままに書く。われわれの口碑は山城が景勝よりもさきに死ぬことを欲していない。もし記録のほうを信ずるとしたらば、わたしがこの後に書くことはありうべからざることになってしまう。それではかさねがさね不都合である。わたしは公平無私の態度をもって、記録を排して、口碑のほうを信ずる。そもそも、年の勘定なんぞは後世の貧棒性(びんぼうしょう)がさせる心配ではないか。むかしの気風は鷹揚(おうよう)であった。ふたたびいう。山城はまだ生きのこっている。

 で、普通に話が再開する。「不都合なことに」以下の流れに著者の真骨頂を見た思いがした。というか、こういう文章にぶつかるために読むのが石川淳ではないかと長短篇いくつか読んだ結果思うのだけれども、この面白さを言い表す単語を見つけられないのがもどかしくてならない。
 それにしてもこういう書き方ってどっから湧いてきたんだろう。凄いや。

追記2013/12/10
本作を収めた短編集『落花・蜃気楼・霊薬十二神丹』がキンドル版で出たのでご紹介。確認時の価格は840円。
落花 蜃気楼 霊薬十二神丹 (講談社文芸文庫)
石川淳

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講談社 1992-02-10
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