山岸俊男『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』

 あっちこっちで取りあげられていた本。「日本人よりアメリカ人の方が他人を信頼する」「日本人はアメリカ人より個人主義」って部分の紹介をよく見た気がしたのだが、ブクマし忘れたせいで記事に辿り着けなかった。
 本書は1999年に発行されたもの。内容紹介はこちらの記事がよくまとまっていると思った→山岸 俊男:安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 中公新書 - domi環境のBOOK−DB
 「はじめに」の冒頭を引用するとどんな本かわかるかと思うので、ちょっと引っぱってみる。

 人を信じることは、おろかなお人好しのすることでしょうか。それとも逆に、誰も信じないで「人を見たら泥棒と思え」と思っている人こそ、おろかな人間なのでしょうか。この本はこの問を出発点としています。
(中略)
 筆者が言いたいのは、他人を信頼することが本人にとって有利な結果を生み出す社会的環境と、他人を信頼しないことが有利な結果を生み出す環境が存在すること、そしてその環境はわれわれ自身が作り出しているということです。
 そしてさらに、この議論を踏み台にして、これからの日本社会について考えてみたいと思っています。これからの日本は、他人を信頼することが有利な結果を生み出す社会になるのだろうか、それとも、他人を信頼しないことが有利な結果を生み出す社会になるのだろうか、という問題です。

 この本は「信頼」と「安心」を分けるところから始めている。俺流解釈で平たく言うと、相手が何するかわからない状況で、相手がひどいことをしない方に賭けることを「信頼」、そういう「相手が何するかわからない状況」を極力作らないようにするのが「安心」であるようだ。そしてバブル崩壊以降、日本は「安心」が崩れてきたと著者は主張する。そしてそれを契機に「安心社会」から「信頼社会」へと移行すべきであるとも。

 で、紹介されている実験がなかなか面白くて他人に対して信頼度の高い人と、信頼度の低い人に「囚人のジレンマ」系ゲームをやらせると、前者の方が良い結果を出すのだそうである。つまり「疑ってかかる方がダマされにくい」という常識は間違っているという結果が出るわけだ。じゃあ俺たちはどうしてこれをなんとなく正しい世間知だと考えるのか。このゲームにもうひとつ条件をつけたところで、「疑ってかかること」が、機能するからである。
 それはどんな条件かというと、「相手が誰だかわかっているとき」なんだそうな。知ってる人間が「自分に対してどう振る舞うか」を当てる正確性は疑ってかかる人の方が高いらしい。不確定性のない安心社会というのは、この「知っている人が自分に対してどう振る舞うか」が大事な社会になるので、「人を見たら泥棒だと思え」という他者観もそれなりに理由のあることのようだ。でそういった人がどんな人であるか、まとめてあるところを引用してみる。

 集団内での人間関係を性格に認知している人たちは、「人を見たら泥棒と思え」と考えている人たち、つまり「他人」全般に対して強い不信感をもっている人たちだと考えられます。ただし、これらの人たちにとっての「泥棒と思う」べき「人」ないし「他人」が、自分以外の人たちすべてを意味するのではないらしいことが、二番目の結果から示唆されています。つまり、集団内での人間関係を正確に認知している人たちは、不安になると仲間と一緒にいたいと思う傾向が強い人たちであり、また仲間と一緒にいると安心していられる傾向の強い人たちだという結果です。よく知っている仲間たちと一緒にいれば安心していられるというわけですから、そういったよく知っている仲間を「泥棒」と考えているのではないでしょう。ということは、集団内での人間関係を正確に認知している人たちが「泥棒」と思っている「人」というのは、よく知っている人や身内を除いた、いわゆる世間一般の人であり、そういった意味で使われる「他人」のことだと考えられます。
 つまり、集団内での人間関係を正確に認知している人たちというのは、仲間との関係では安心していられるが、いわゆる他人との関係においては不安を感じ、よく知らない人には心を許せないと思っている人たちのようです。そしてこの解釈は、集団内での人間関係を正確に認知している人たちは、他人との関係であまり波風を立てたいと思っていない人たちだという、もう一つの結果とも一貫しています。
 また最後の結果は、集団内での人間関係を正確に認知している人たちは、自分の行動は自分で決めることができるという積極的な自己観の持ち主ではないことを示しています。このことは、上の結果と併せて考えると、仲間から離れて自分一人で生きていくことに対する自信をあまりもっていない人たちが、集団内での人間関係を正確に認知していることを示しています。

 著者はこのようなタイプを「社会的びくびく人間」と名づけている。
 ちなみにこういうのを見ると、自分は違うと思う人もたくさんいるんじゃないかと思うので、上記のような人と関連の深い質問項目ってのも引っぱっておく。


・人とうまくやっていくためには、まず自分から歩み寄ることが必要だ。
・私は人を信頼するほうである。
・積極的に行動すれば、ものごとはたいてい良い方向へ向かう。
・ケンカになっても友達の立場になり、彼らの考え方も理解することができる。
・人柄を非難することなく、友達との間で生じた問題を切り抜けることができる。
・私は周囲の人間関係がうまくいくように気を遣っている。


 集団内での人間関係を正確に認知する人はこれらの質問にノーと答えることが多く、


・私は人とのつきあいがあまりない。
・私の社会的なつながりはうわべだけのものだ。
・私はまわりの人たちから疎外されている。
・私には知人はいるが、気心の知れた人はいない。
・私には何人かの頼りにできる人がいる。


 のうち、始めの4つにイエス、最後の質問にノーと答えることが多く、「愛の歌や詩に感動しやすい」という質問にはノー。「私はまわりの人が悩んでいても平気でいられる」、「私はいつも感情を顔に表さない」という質問にはイエスで答えるという傾向が見られるらしい。またこのようなタイプの共感性は概ね低いというデータも出ていた。つまり「誰と誰が仲が良い(悪い)」とか「人の気持ちがわかる」とかってことに「共感してあげられる」という要素はあまり関係がないのだそうだ。なんとなく、腑に落ちる話である。

 他に引っぱりたい部分が数カ所残っているのだけれども、疲れてきたのでとりあえずここまでにする。「心過剰の差別理解」「差別の文化」って箇所が目から鱗の落ちる話だったんだけども、体力が続かなかった。これだから興味深い本って奴は……。ひょっとするとこの項続くかもしれない。

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