川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ5


 この本の読書メモ。
 前回。
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第二章 戦争の長期化 第二節 ガダルカナル「転進」と「大本営発表

 開戦後半年くらいから徐々に戦況が悪化する。それはまた同時に「大本営発表」の虚報の始まりでもあった。ということで、ありもしない戦果をでっちあげたり戦略的な敗北を大戦果と言ってみたりしつつ1943年2月9日にはガダルカナル、ブナからの「転進」という発表がなされる。粉飾された戦果をメディアもそのまま垂れ流しているのだから、国民が気づけるはずもないと思いきや、この頃から報道に対する不信が警察への匿名投書の形で観察されるようになったのだとか。
 そうした事柄を背景にしつつ、筆者の筆は当時の労働状況に進む。大量招集で熟練労働者が職場から前線に奪われ、労働現場に混乱を招いたため労働力の確保そのものが大きな課題となっていた。

 労働力の確保について、その埋め合わせとして、当時「徴用(ちょうよう)」という制度があった。(略)これは日中戦争のさなか一九三九年七月に公布された国民徴用令により、国家権力が重点産業に労働力確保のために一方的に民衆を招集する制度のことである。兵隊の召集令状がその色から俗に赤紙と言われたのに対し、徴用は、その令状の色から白紙召集と呼ばれた。今日ふうに言えば、強制的な転職であるが、ほとんどの場合、待遇・賃金ともに以前の職業よりも低下していた。名誉の白紙召集などと称されていたが、精神面ばかりが強調され、その見返りははるかに少なかった。
(中略)
 この徴用行員に加え、当時の工場には転業者と呼ばれる人々がいた。軍需産業に重点をおく経済統制の強化により、当時、戦争経済に不要不急とされる業界は規制、廃業、転業を余儀なくされていた。

 待遇・賃金ともに以前の職業よりも低下しているの一例として、1942年6月から7月の調査が引かれている。それによると転業者の収入は「最高一三〇円余、最低四三円余、平均七七円」である一方、ほかの一般労務者は「最高二九八円余、最低九七円余」だったという。つまり、転業者の平均収入はそれ以外の一般労務者の最低賃金を下回っていたわけだ。上の引用を見ればわかるように、これは本人たちが希望した転職ですらないわけで、やってられなかっただろうな。実際、転業、徴用といった人々は、好条件の求人があるとさっさとそっちに行ってしまうことも多かったのか、1942年11月の『特高月報』には三菱神戸造船所で欠勤率30%を川崎艦船工場では63%を記録したとある。しかし、当局には状況を改善するような策もなく、労力不足の対策として捕虜の子葉と徴用の延期に踏み切る。なお、捕虜の就労は戦時における国際法違反だった。なんかこれまた今も昔もな話だと思いません? もちろん、これで生産効率が上がるはずがない。
 徴用期間の延期は「心理的動揺を来し、勤労意欲の低下に依る生産減退を生ずる懸念ある」状況だったが、じゃあどんな対策をしたかといえば、

 この「特別の措置」として、当局は精神主義でこれを埋め合わせようとした。例えば、陸軍航空本部では関係工場の模範徴用工員を表彰した。(略)特別の措置とは、精神主義による国民の犠牲に名誉を与えることであった。国民の側で、これを名誉と受けとめている限り、それは最も効率的な支配に過ぎないのである。

 なんかあんまり関係ないが、最近(数年以内)も少子化対策とかいって子ども何人か産んだ人を表彰してはどうかってアホなこと言った議員がいたと思うが、発想は戦時中と同じだね。

 能率、意欲の低下は農村でも起きた。理由は(1)軍需中心の産業政策の結果、肥料・農機具の入手が困難となり、さらにその品質が悪化していた。(2)大量召集による労働力不足の深刻化。(3)米価引き上げの見送りとのことで、この節読んでると、いったい誰得でこの戦争は遂行されていたのかという気がしてくるわけだが、「始めてしまったものをやめたら面子に関わる」(アベノミクスみたいに)ってだけだったのではないかという気も強くする節だった。転業のせいで数代続いていた店畳まなきゃいけなくなった人物から「天皇なんか殺せ」という投書もあったらしいが、そりゃそうだろうなあ。