この本の読書メモ。
前回。
gkmond.hatenadiary.jp
第一章第一節「臨時ニュースを申し上げます」
は1941年12月8日の真珠湾速報から稿を起こしている。朝に臨時ニュースのラジオ放送があって、その日だけで16回のニュース放送が流れた。昼前に宣戦布告の大詔(たいしょう)が発せられ、正午には君が代が流れて詔書が読み上げられたとある。戦況の発表は午後一時。この時点では戦果報告なし。夕刊は競って読まれたようで、こんな回想が引用されている。
「有楽町のホームでひとつの新聞を読み、もうふたつをオーバーのポケットにはさんでおきました。夕刊を読んでいるうちに、私もすっかり興奮してしまい、ポケットからふたつの新聞が盗まれてしまったのもまったく知りませんでした」(保坂正康「日本人がいちばん熱狂した日 ドキュメント・昭和十六年十二月八日」『潮』一九八三年一月)
まあこんな感じだったのかね。
で、午後六時になると首相官邸が政府の発表は「政府が全責任を負い、率直に、正確に、申し上げるものでありますから、必ずこれを信頼して下さい」と呼びかけた。読んだときに内藤剛志の顔が浮かんだのでなんでだろうと思ったら、昔懐かし『家なき子』で内藤演じる主人公すずの父親が「自分を信頼しろというやつを信じちゃ駄目だ」と言っていたのを思い出したからだった。で、わかりやすく保阪尚希が「相沢、先生を信頼するんだぞ」と言って……話がずれた。
で、開戦の報に爽快感や開放感(もやもやしていたものが一挙に吹き飛んだ」とか)、歓喜を感じた人が多かったという話はなんとなく知っていたので、あまり驚きもない。筆者はここで、
この「もやもやしたもの」とは戦争目的への疑問にほかならない。アジアを欧米から解放すると言いながら、その欧米とは直接戦闘することなく、すでに中国と四年も戦争をしていたのである。しかも、戦線はいたずらに拡大し、この泥沼化した大陸の「事変」に対する目的意識の喪失と厭戦(えんせん)気分が国民の間に蓄積されていたのである。
と説明している。開戦当時十歳だった人の、開戦の放送を聞いて思わず「うわーい、やった、やったあ!」という反応は、それまでどんなふうに報道がされていたのかをよく示しているように思った。
このへんはイメージどおりだったのだけど、次に引用する伊藤整の日記は、やや意外というか趣が少々異なっている。
バスの客少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のこと言わず。〈中略〉新宿駅の停留場まで来たが、少しも変わったことがない。そのとき車の前で五十ぐらいの男がにやにや笑っているのを見て、変に思った。誰も今日は笑わないのだ。
また、当時、フランスの通信社の特派員として来日していたロベール・ギランは、「当日午前七時、東京・新橋で開戦を告げる号外に接した日本人の姿を次のように記録している」。
人々は号外に目を通すと、「だれもが一言も発せずに遠ざかっていった」、新聞売子の周りにひしめき合う見知らぬ同国人たちに、進んで自分の感情を打明けようとする者はいなかった」。
こうした様子をギランは次のように解釈した。
彼らはなんとか無感動を装おうとしてはいたものの、びっくり仰天した表情を隠しかねていた。この戦争は、彼らが望んだものではあったが、それでいて一方では、彼らはそんなものを欲してはいなかった〈中略〉何だって! またしても戦争だって! このうえ、また戦争だって! というのは、この戦争は、三年半も続いている対中国戦争に加わり、重なる形になったからである。それにこんどの敵は、なんとアメリカなのだ。アメリカといえば、六ヵ月足らず前には、大部分の新聞や指導者層が御機嫌を取結んでいた当の相手ではないか!(傍点筆者)(引用者註:この引用では傍点は斜体にした)
要するに民衆は「事変」長期化の根本原因の解決を「望んでいた」のであって、戦争を「欲していた」わけではなかった、というのが筆者の解釈。
ところが、午後一時半にギランはムードが一変していることに気がつく。なぜか。真珠湾攻撃の大戦果を知って安心したから、では、ない。まだ戦果報告はされていなかった。ムードを一変させたのは「宣戦の大詔」である。
それは、もはや、今日の日本人には理解しがたい心情であるが、国民の戦争に対する決意と戦争目的の確信を導いたのは「大戦果」ではなく、天皇の「大詔」だったのだ。
大詔の内容は本書p.33~34で語られているけれども、長いので、ウィキソースで見つけた原文を代わりに貼っておく。そのうち気が向いたら写すかもしれない。
ja.wikisource.org
で、次の引用のように解説がされているのだけど、知らなくて驚いたことがいくつかあったので太字にしてみた。
この詔書により日本人は「大東亜戦争」の戦争目的を理解したのである。このことは、逆に当時の日本人が、いかに自民族中心主義的にしか世界情勢を理解できていなかったかを如実に物語っている。
若干の捕捉をすると、詔書に言う「与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦」とは、「ABCD包囲網」のことを指す。(略)この「包囲網」という表現には切迫した危機感があり、開戦前から盛んに言論・報道を通じて主張されていた。しかし、当時のヨーロッパ戦線の動向からしても、「ABCD包囲網」というのは、いかにもおかしい。独軍の包囲網により追いつめられた英仏軍がダンケルクから、奇跡的な撤退を始めたのが一九四〇年(昭和十五)五月末のことである。アメリカで武器貸与法が成立したのが一九四一年三月であり、これを受けイギリスが反攻の態勢をとれるようになるのは一九四二年中ごろからである。オランダはもはや亡国状態にあり、中国を包囲しているのは日本の方である。イギリスやオランダは欧州戦線に釘付けであり、とても「東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス」というような余裕はない。包囲網とは名ばかりで、要はアメリカなのである。また、この詔書では「大東亜戦争」がもっぱら中国をめぐる日本と英米間での問題として説明されている。しかし、それならば、なぜシンガポール、フィリピン、インドネシアといった南方にまで侵攻する必要があるのかということの説明には全くなっていない。
さて、この「宣戦の大詔」について、最後にもう一点。「大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス」で始まるこの文章は、一読しておわかりのように天皇が国民に対し発した言葉である。(略)この宣戦布告の文章と目的語の関係に注目されたい。これは、明らかに日本国民に対する宣言であり、国際社会に向けた言葉ではない。つまり、宣戦布告といいながら、その文章には目的語に対戦国が登場してこないのである。この主語と目的語の関係は戦争の性格を象徴している。(太字は引用者)
宣戦布告の宣言が国際社会に向けられたものではなかったってのにも驚いたが、ABCD包囲網って、おれ、小学校のとき『まんが日本の歴史』で読んだ記憶あるんだけど、こんな胡散臭いワードだったわけ? という驚きで口が開いた。
で、この宣言が戦闘開始報道のあとに出たことは特に誰も疑問に思わなかったらしいのだが、その理由を語るところにも知らなかったのでびっくりが。太字にしておく。
「満州事変」、「支那事変」と宣戦布告のない「戦争」に慣らされていたこともあるだろう。また、実は日本軍は日清戦争のおりも、日露戦争のおりも宣戦布告なき先制攻撃の例があった。一八九四年(明治二十七)、日清戦争開戦時には、八月一日の宣戦の詔勅に先立つ七月二十三日に日本軍がソウル王宮を制圧しているし、一九〇四年(明治三十七)日露戦争開戦時の仁川沖海戦・旅順港襲撃においても、二月十日の対露宣戦布告以前に戦闘が開始されていた。これは、一九〇七年、宣戦布告をせずに戦闘をすることを禁止した国際条約が調印される前のことである。条約調印後は、「事変」でごまかしてきたことになる。
思い出したのはこれ。
mainichi.jp
現地の政府軍と反政府勢力の争いを「戦闘行為」と認めれば憲法9条に抵触しかねないので、表現を「武力衝突」と言い換える--。
真珠湾自体は連絡の不備で云々ということが書いてあり、もし予定通りにいっていれば、「国際法上の違反とはならないが、要するにそういう形でしか緒戦の勝利を得る方法はなかった」わけで、この戦争そのものの無謀さを示していると著者は言う。もちろん、国民はそんなことは知らない。前述されたように開戦の報に爽快感や開放感、歓喜を感じた人が多かったし、それ以外の反応は「いよいよ来たるべきものが来た」という緊張感だったり、「進むべき道が示された」という納得だったりで、先行きの不安を感じたものはごくわずかだった(最も少ないのが日本の敗北を予感した者だったとも書かれている)。
一方で、中島飛行機に勤めていた男性や外国の技術書を読んでいた技術者、海軍軍人の子弟が多く通う学校の生徒などは不安を感じたとある。
また、翌十二月九日には国内で民族独立運動に関与している朝鮮人124名が一斉検挙され、忠誠の証を示す必要があったためか(どこの国でもしわ寄せはマイノリティーに来るんだよな……)、朝鮮人の国防献金は前月比五倍になったとか。翌年の1月東條が南方諸国の独立を認める声明を発表したときには、「朝鮮も当然独立さすべきである」という不満を表明する者が多く見られた。著者は、
こうした言動は日本のアジア解放という聖戦理念の虚構を、まさに衝(つ)くものであった。南方の諸民族が、建前であれ「独立、解放」の対象である一方で、本土の朝鮮人は、解放どころか検挙の対象だったのである。
と評している。適切なコメントだと思う。
一章一節の「抜いとこうかな」を気分のままにやったら大変な量になってしまった。以後やり方を考えたほうがいいかもしれない……。