なむあみだぶつの合理性

 鈴木大拙の「日本的霊性」を読んだ。戦中に出版されたものなんだけど、日本の宗教意識を体現しているのは仏教であるって宣言していて、出すのに勇気が要ったんではないかと*1
 法然親鸞万歳な主張のために平安時代までの文化を「女性的だから駄目」と断言したり、武家政権の成立は腕力の問題ではなく霊性の問題とか言っていたり、おまけに主張されることはこっちが無知なんで妥当性の判断が聞かなかったりと散々だったんだけど、次の部分が目に止まった。

 才一*2は悟道の達人であった。彼は禅者のようにお悟りを振り回さない。いつも有難いとか、よろこばしいとか、うれしいとか、楽しいとか言って、知性的表現を用いぬ。これは浄土系の人々の特徴で、彼らは何事をも情性的文字で述べる。

 この才一さんは色んな歌を残しているそうで、著者はそれを引きながら解説をしている。こんな感じ。

専門の哲学者になれば、なんとか論理の筋を立てるにきまっている。才一に言わせると、

「わしのこころは、あなたのこころ、
あなたごころが、わたしのこころ。
わしになるのが、あなたのこころ。」

である。この心を心と知るのが「なむあみだぶつ」である。言い換えれば、「なむあみだぶつ」になると、「わしになる心」のあなたがわかるのである。それで、次の歌に、

「お慈悲も光明もみなひとつ。
才一もあみだもみなひとつ。
なむあみだぶつ。」

みな一つのところが、「なむあみだぶつ」である。即ち「なむあみだぶつ」であり、また光明であり、また慈悲であり、また才一である。この自覚を霊性的直覚という。そしてこの直覚の形態に日本的なものを見たいのである。

 この部分がなんだかひどく愉快だった。
 それはさておき、このなんでもかんでもなむあみだぶつと唱える方法は、たとえば「ネガティブなことを思ったらポジティブな言葉を」みたいなテクニックのバリエーションとして使えるんではなかろうか。ようするにこんな奴の話題の一環として。
「心のスイッチ」で心の状態を変える:「忙しい、疲れた」厳禁、「大丈夫、楽勝」を口癖に
 リンク先は別段目新しい話はしていないけど、具体例があった方がいいかなと思って引っぱってみた。

「忙しい」とか「きつい」「大変だ」などの言葉を頻繁に口にすると、どんどん自己暗示されていきます。そうではなくて、「余裕、余裕」とか「楽勝、楽勝」とか「行ける、行ける」「大丈夫、大丈夫」という言葉を言ってください。状況が一緒なら、できるだけいい心の状態で対応する方が、いい結果が出ます。

 こういう流れで引用すると、すごく宗教臭いアドバイスになるなという話はひとまず置いておいて、こういうアドバイスは世の中に溢れているし、これで上手くいく人もいるはず(これを受け止め方のクセづけと考えて、一定期間続けられる人には有効な方法じゃないかと個人的には思っている。)ではあるけれど、ネガティブなことを考えないようにするのは難しい(ってのの対処法もリンク先にはあったけれども、あんまり説得力がない)。
なんでかって「ネガティブなことが浮かんだ→ポジティブなとらえ方をしなくちゃ」を意識している限り、口から何を言っても、「ああ今無理してるわ」という気持ちが残るからだ。やってるうちに意識しなくなる場合もあるだろうし、そもそもそういう変換をかけるというところが発見という場合もあるだろうから、こんなもん役にたたねえよ! と言ってるんじゃないから、そこは勘違いしないで欲しいんだけど。
 俺がここで注目したいのは、ネガティブな言葉やポジティブな言葉と文脈とのコロケーション(本来的には単語と単語の結びつきの妥当性を指して使う単語なんだけど、ここでは文脈と単語の組み合わせという意味で使ってる)だ。意識してポジティブな言葉を使うとき、人はネガティブな言葉を使う妥当性を認めている。そこでポジティブな言葉を吐き出そうとすると、コロケーション的な抵抗を感じる。これがさらなるストレスを生み出す場合が考えられる。
 で、「忙しい」「きつい」「大変だ」という言葉を発するとき、人間は何をしようとしているのかと言えば、言葉を吐くことでスッキリしようとしている。これは愚痴にしてもたぶん同じだろう。解決策が提示されるかどうかどころか、聞く相手がいるかどうかさえ問題でない場合が往々にしてある。たとえば「面倒くせー」とか「やってらんねー」とかって部屋に一人でいるときにも使う言葉じゃなかろうか。
 この前提がおかしくないなら、人は身体に溜め込んだ何かを吐き出すために言葉を選んでいるに過ぎない。そして選ばれるのが文脈とのコロケーションにマッチする単語、いわゆるネガティブな単語ということになる。
 リンク先のようなアドバイスは言葉自体の力を重視して、そこにポジティブワードを放りこめと言っているわけだが、コロケーションの妥当性が低いとネガティブな言葉を選択しないことによる本人的にあまりないことになる(回りへの影響という点ではこれだけでも結構なメリットがあるとも考えられるけれども)。
 で、思ったんだけども、なんか吐き出したいけどネガティブな言葉は悲観的な自己暗示をかけるし、ポジティブな言葉はコロケーションの抵抗に遭う。なら、いっそ無意味な単語を使えばいいのではないか?
 そう考えたときに、このなんでもかんでも「なむあみだぶつ」と唱える発想というのは、なかなか正しい気がする。無理して明るい言葉を使うわけでもなし、後ろ向きな言葉を吐くわけでもなし、かつ言葉は発するわけだから。仏法の御利益云々はあんのかないのか知らないけど、方法論的には合理的な気もする。これを現代的にアップデートしたら結構楽になれる人が出てくるんじゃないかな。すくなくともクセづけが終わるまでの時間がキツいという人に対するニーズはありそうだ。
 別に「なむあみだぶつ」にこだわる必要はなくて、ほとんど意味のない音の連なりならなんでもいい。「あだもすでぺい」とか「あっはぷふいふい」とか「あらびんどびんはげちゃびん」とか「びびでばびでぶう」とか。節を付けたり、大きな声を出したりするのも重要かもって、あれ……もしかしてカラオケにでも行って発散した方が早いのか?

*1:通説によれば当時は国家神道の時代で、そこでいや日本的霊性を体現するのは仏教なんですって主張をするプレッシャーはかなりあったと思われる。ついでに言えば本書が出ていたという事実は、当時の言論統制を考えるときに思い合わせる必要があるだろう。神道じゃ物足りないという主張が戦争も後期に入ってから出版されていたというのは、少なくとも俺の戦中メディア規制イメージとは重ならなかった。

*2:妙好人−浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる人−として紹介されている人物