無駄の効能

 小説の誕生(保坂和志)をパラパラめくっていたら、20世紀初頭の世界について「この時代は人間が大きな大きな夢を見ていられたのではないか?」と言い出して、陳腐な現代に至る流れを記述し、阿保かと思わされそうになる寸前で、「この程度の分析はこざかしい中学生でもできる。というよりも、こざかしい中学生の方がむしろ得意だろう」と、ひねり、そこから中学生の屁理屈をどうして大人がつぶせないのかという話にスライドしていって面白かった。

「死ぬとは、その人の世界がなくなることなんだよ」と大人が言えば、こざかしい中学生は「だからそれは“その人”の世界であって、僕の世界ではない。だいたい、僕以外の人間の中にどんな世界があるかなんて僕は知りようがない。この机には世界があるんですか、ないんですか。知りようがないものを“ある”とどうして断言できるんですか」とでも答えてくるだろう。
 こういう、部分としてつじつまのあった理屈を一挙につき崩すものが大人つまり社会の側にはない。こざかしい中学生に向かって、たとえば宗教的な回答が無駄なことは言うまでもない。むしろ「君が痛いのが私にはわからないんだよ」と言いながら、ボコボコに殴りつけてやる方がいいくらいだろう。……なのだが、ここで私たちは、いまこの状態にあるこざかしい中学生に向かって、いますぐに何かを言おうとしていないだろうか。(太字は原文傍点)

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 このあと、話は時間が物事を凄く変えるという話になって、そこから小説の話へと落ちていくみたいなのだが、「……なのだが、ここで私たちは、いまこの状態にあるこざかしい中学生に向かって、いますぐに何かを言おうとしていないだろうか。」という指摘は良いこと言うなあと感じられた。
 すぐに話題が移ってしまったので、こっからは勝手な解釈であるけれども、他人の価値観を変えようと思ったら、即効性を考えてはいけないということが言いたかったのではないかと。
 引用に出てくる中学生の屁理屈を潰すにはやはり文中に出てくる「ボコボコに殴りつける」という手段が手っ取り早い(すくなくとも口に出しにくくはなるだろう)が、それは隠させただけで変えさせたわけではない。これは分かりやすい。しかしすぐに考えを変えさせようとするのはそれ以上に無駄だと言われるとちょっと新鮮な気持ちになる。無駄だからやるな、ではなく、変えられないことを前提に何かを言えという風に読んだからだ。
 この文脈で言う無駄とは即効性の有無の話になる。そして、説教するのが大好きな人間は大抵相手に対する自分の言葉の即効性を信じて疑わない。効果がないと「あいつは駄目だ」と放り出す。
 なぜ彼はあるいは彼女は即効性を求め、それが無理だと放り出すのか。それは自分の言葉の効果がダイナミックに現れるのを見たいからだ。影響力を確認したいからだ。
 保坂の文脈から感じられるこざかしい中学生の御し方はそれとは別のルートへ向かう。それは、たとえば他の情報と将来結合することを期待するような、とりあえず種だけまいて芽が出るかどうかは確認しないというような方法論である。
 おそらく人の相談に乗ったり、何かを助言したりするようなとき必要で、かつ忘れられがちなのは、こうした心持ちだろう。時間が人を変えるのは、結果として撒かれた種がどういうわけか芽を出すからであり、それが有効に活動を始めるための言葉が劇的な注目を浴びるにしても、その言葉が響くためには、それまでため込まれた無駄弾の存在が外せないに違いない。
 いや別に即効性のある言葉を使おうとするのを批判したいわけではなく*1て、それだけでは駄目なのかもしれないと変に納得がいったというだけなんだけどね。即効性があると思って空振りした言葉も完全な無駄にはならないという風にも言えそうだし。

*1:自分もここで提示されているいますぐ効果を挙げる言葉を求める癖があるし