真珠養殖技術の開発

 「the Suspicions of MR Whicher」を読んでいたら、「初めて人工的に真珠を作るのに成功したのはふたりの日本人科学者である」という記述があった。ものを知らないぼくなもので「え、そうだったの!」とビックリ。それで「科学者」の名前がなかったから検索してみることにした。すると出てきたのが、御木本幸吉@真珠王(ウィキペディア)。この人のところにいた人々が真円真珠と呼ばれるものを作ったらしい。

1907年(明治40年)
 見瀬辰平氏が初めて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得しました。
 西川藤吉氏が真円真珠養殖に関し真珠形成法4件の特許出願、この一部は見瀬辰平氏特許権に抵触する。これら4件は西川藤吉氏没後の1916年および1917年に登録されましたが、後者登録の特許権は「西川式」または「ピース式」と呼ばれ現在の挿核技術の基礎となっています。

http://mie-pearl.or.jp/sinjyu/history.htm

 んでそのあと御木本さんとそのブランド「ミキモト」はこの真円真珠で世界に打って出る。1902年にはアメリカでエジソンとも会い、「私が作れなかったものがふたつある。一つはダイヤモンドでひとつは真珠だ。それを作ったあんたはすげー*1」と言われたのだとか。
 しかし世界的に認知されるまでにはやはり色々苦労があったようで、ウィキペディアにはこんなエピソードが載っていた。

1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商は天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定する騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界で認める宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。

幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。

御木本幸吉 - Wikipedia

 なんにでも歴史があるなあと感心したんだけれども、件の本のイギリス人著者によると、最近この最初に人工の真珠作成に成功した人ってのがあるイギリス人なんじゃねーの? という主張が出てきているらしい。その説を提出したのはオーストラリアの、真珠の専門家、C・デニス・ジョージという人。その人の主張によれば、オーストラリアのブリスベンに1セット、アイルランドに1セット。人工真珠を繋げたものが存在し、それらは御木本以前にイギリス人学者ウィリアム・サヴィール-ケントが作ったものであるとのこと。詳しくはSavant of the Australian Seas(A.J.Harrison)を見てねと書いてあった。ので、検索してみたら太っ腹なことにテクストがネットに上がっていた。(こちら)チャプター9が真珠の養殖の話っぽい。ちゃんと読んでいないのだけれど、上の主張をしているデニス・ジョージ氏はミキモトの招きで来日したこともあるらしい。それはともかくこの「Savant of the Australian Seas」を信じるなら、半円真珠はサヴィール・ケントの方が数年早く開発に成功していたようで、たぶん真円真珠も微妙に早く作ったみたい。じゃあなんで特許取らなかったの? ってのが気になったのだけど、気力が続かず、読み切れなかったので棚上げしておく。気合いのある人がいたらリンク先の英文を読んでみてくれ。ちなみに両者はお互いのことを知らないまま、独自の研究を重ねていたらしいので、これをもって御木本氏とその協力者たちの業績の価値が下がるなんてことはないだろう。
 真珠のことなんて興味がなかったので勉強になった。ミキモト真珠島というサイトでは真珠のできるまでを教えてくれるみたいなので、そのうち眺めてみようと思う。
 ……軽い寄り道のつもりが随分時間をかけちゃったな。まあいいか。

追記2010.10.29
 猪木武徳「戦後世界経済史」(Amazon)を読んでいたら関連記事が出てきたのでくっつけておく。

 ヤーギンの『石油の世紀』には意外なエピソードがたくさん盛り込まれている。日本の養殖真珠が、クウェートの石油採鉱のきっかけを作ったという話もその一例である。御木本幸吉は長い苦労の末、一九〇五年に真円真珠の養殖に成功し明治天皇に献上した。この養殖真珠が、クウェートはじめペルシャ湾沖で採取、輸出されていた天然真珠を完全に市場から駆逐し、三〇年代には「クウェート経済は荒廃し、輸出利益も急落、商人は破産、船は浜に揚げられ、水夫は砂漠に戻ってしまうといったありさまだった。アハマド首長とクウェート政府は新しい収入源を必要としていた。石油採鉱待望論が起きたのはちょうとこの時だった」(邦訳上巻四九六頁)とある。

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)pp.51-52