川北稔『イギリス近代史講義』

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)
川北 稔

4062880709
講談社 2010-10-16
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 部屋に転がっていたので、読み出したら、案外面白く一気に読了。
 最初に語られるのが、イギリスは17世紀頃には単婚核家族が多く、かつ晩婚(二十代後半くらいに結婚)だったという話で、そこには十四歳くらいから親元を離れて奉公に出るというシステムの影響があったなんてことが語られる。で、奉公が終わると独立して家族をもち、その子がまた十代半ばになると奉公に出るという形が一般的だったため、出ていった子供が戻ってきて親と同居するという習慣はなく、その結果、高齢者夫婦あるいは高齢単身者の問題が早々と九品問題になり、17世紀のはじめにエリザベス救貧法という法律が制定されたと続く。
 冒頭からへえと思ったところを引用すると、

 ジェントルマンは、こうして、肉体的な意味での労働や人に雇われるような勤務はしないことが条件と考えられました。自らの資産からの所得によって、サーヴァントを雇い、政治活動とチャリティなどの社会奉仕と趣味・文化活動を事として暮らす「有閑階級」であり、独特の教養と生活様式を維持していることが求められたのです。逆に、職元、つまり、毛織物業の経営者やその労働者である織布工のように、自ら労働をして報酬を得れば、原則として、ジェントルマンの地位を失うとされていました。この原則は、イギリスだけでなく、ヨーロッパに共通の習慣でした。

 なんとなくやってることは理解していたけども、労働をして報酬を得るとジェントルマンの地位を失うってのは知らなかった。この直後に「家督を継げないその次男・三男の処遇のため、弁護士、内科医師、将校、高級官僚など『ジェントルマン的職業』が、社会的に事実上承認され、帝国の拡大とともに、豪商の域に達した貿易商も、擬似的なジェントルマンとみなされるようになりました」と、あるんだけど、政治家はどうだったんだろね。報酬なかったんだろか。

外科医、散髪屋、歯医者というのは、当時の職業概念では人体の一部を切り取るということで、ひとつの仕事に考えられました。

 ボルヘスが日本の図鑑か何かを読んで、カテゴリわけの問題に大受けしたという話があったように思うけど、そのときの気持ちは、この文面を読んだときのおれの気持ちに似てるかもしれない、と思った。

 イギリス史では、「シティズン」と「バージェス」(フランス語でいう「ブルジョワ」)という言葉が必ず出てきます。字義どおりには、シティズンはシティの市民権を持った住民のことで、バージェスは、そうでない都市の住民、有産者ということになります。ただし、イギリスでは、シティというのは非常に限られた数しかありません。アメリカ英語では、大きな町のことを何でもシティと言いますが、ほんらい、シティというのは、司教座のあった町のことで、イギリスでは二六しかありませんでした。シティ・オヴ・ロンドンには、司教座がありましたので、シティなのです。司教座がなくて、城塞、つまりブルクから発展した城下町をブルクと言い、そこの住民がブルジョワということになります。シティズンであれ、バージェスであれ、イギリス近世都市のなかでは、こうした市民権保有者は人口の半数以下であることが多く、市民でない住民が多かったのです。

 シティとシティズンの関係がわかっていなかったので「へえ」と思いました。
 だが、このあたりまで読んできて、大変なことに気づいたのである。この本、たしかにイギリス近代史を講義してるんだけども、普通こういう本を手に取ったときに思い浮かべる「1600年、○○が××を行い、その結果、△△が□□をした。同じ頃@@は……」的な話がさっぱり書いていないのだ。何かを求めて読み出していたら(いや、買ったときはなんか目的があったと思うんだけど、時間の経過によりすっかり忘れてしまったので、読むときには別になんの目的もなかった)さぞがっかりしたろうし、この本買ってみようと思う人には、その点ご注意をと言っておくけども、ついでに言えば、「画期的入門書」って惹句はどうなのよとも思うけど、それはそれとして、なんとなく読んでいても結構愉しいので、まあいいやと後半も読んだ。そうしたら、「ロンドンのスラムは、ほんとうに産業革命で生まれたのでしょうか。」という問いが出てきて、そっからも興味深かった。こんなふうに言っている。

 チャールズ・ディケンズといえば、『オリヴァー・ツイスト』や『二都物語』などを書いた、英文学史上もっとも有名な小説家の一人で、彼は産業革命時代の社会をよく描いた人物とされています。しかし、彼が描いているのは、主にロンドン、とくにイーストエンドの貧しい人たちのことでした。
 ディケンズは、もともと『モーニング・クロニクル』というロンドンの新聞の記者でしたが、同じ社の後輩にヘンリー・メイヒューがいました。
(中略)
このメイヒューのイーストエンドについてのレポートも、産業革命時代のイギリス社会の悲惨さを示す例として、よく引用されています。しかし、考えてみると、これも変な話です。
 トインビーからはじまって、一連のよく引用される材料というのは、だいたいがロンドンの話です。しかし、ロンドンではふつうの意味での産業革命は起こっていません。ロンドンは、シティを中心とした金融の世界で、産業革命が起こっているのは、はるかかなたのランカシア地方や中部地方です。とすると、産業革命時代の社会の典型と称して、ロンドンのスラムの例を引用するのは、正しいのでしょうか。
 ロンドンにスラムができたことと、ランカシア地方のマンチェスタに工場ができたことには、直接的には関係がありません。というより、工場で雇われている人は、工場から給料をもらっているので生活ができますが、スラムに落ち込んでいる人は、雇われるべき工場がないから、貧しいのではないでしょうか。ここに微妙な議論のずれがあります。しかし、他方では、産業革命が起こった時代に、ロンドンのイーストエンドにスラムができたことも、まちがいのないことです。もしかすると、両者は、どこかでつながっているのではないでしょうか。つまり、マンチェスタの発展と、ロンドンのイーストエンドの成立とは、相互に無関係に展開したのではなく、ひとつの国内システムをなしており、一枚のコインの裏表のような関係にあるのではないでしょうか。

 そう言って著者は、スラムができた原因をロンドンが富を溜め込んだ一大消費都市になったからではないかと指摘する。その結果、船が入る港が発展し、荷役をする特権を持つシティ・ポーターたちの能力を超え、非効率だと思われるようになる。そして荷主や海運業者たちはシティ・ポーターを使わずに荷役をすませる合法的な手段を模索し、個人の所有地に大型船を係留できるプール=ドックを作る。そして荷役のために、周辺から貧しい失業者をかり集めるようになる。そうなるとイギリス中、あるいはアイルランドからも、食い詰めた人たちがあそこに行けば仕事があるとロンドンへ向かい、その結果イーストエンドのスラムが成立したという絵を描く。なるほどねえと思った。
 同じ著者のほかの本もそのうち読もう。

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