ブクマコメント読んで考えたこと

 以下はここ数日のエントリに寄せられたブクマコメントへのお返事です。と言っても当方文字の対話というのがとことん苦手で、コメント欄を閉じているのも、うまいこと噛み合う対話を作っていけないという欠点のためだったりします。取りあげたコメントはすべて自分にとって有意義だったものであることを先に断っておきます。なお取りあげなかったコメントのほとんどについては、「ですよね!」とか「うんうん」しか言うことがなかったとご理解いただければと思います。はてブは一部で評判が悪いけれども、自分にとっては勇気づけられたり、嬉しくなったり、知らなかったことを教えてもらったりと、非常にありがたいということも良い機会だから明記しておきます。
 みなさんいつもありがとう。←別にいつもじゃなくてもありがたいのだった。もちろん「いつも」な人もありがたいのだけど。

以下エントリ順で。


自称愛国者が今日ヘイトスピーチをばらまく呼びかけをしていることに思う - U´Å`U
ブックマーク

id:kaeru-no-tsuraさん

kaeru-no-tsura 差別 >何かを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ。 そう。でも「愛国」を感じるには比較対象が必要で、海外在住経験でもない限りそれは実感できず、対象を醜悪なものとすることで実感するのだ 2009/04/13

 すっげー同意! って最初思ったんですが、微妙に違和感があったので考えてみました。実感ってところについて。で、ですね、「愛国」って気持ちが俺にはいまいちピンと来ないので、「愛猫」にしてみたら、違和感の正体が分かりました。うちではニャンコを飼っていて、いまも膝の上に乗っていたりするんですが、うちのニャンコが可愛いのを実感するのに、よそのニャンコをくさす必要なんてどこにもないわけです。まあニャンコがワンコでも自分の子供でもなんでもいいんだけれども、なんかを「愛する」とか「ああ、これが好きだ」とかって、比較対象なくても成立するんじゃないかと、ご意見を読んで考えたりしました。たとえば在特会の人たちが、kaeru-no-tsuraさんの分析どおりの人々なのだとしたら、それは国なんて愛していない証拠だと思います。これは愛国を掲げるまともな人なら同意してくれるんじゃないかなあ。

id:I11さん

I11 レイシズム, レイシスト, デモ, 表現の自由, ヘイトスピーチ, 街宣, 外国人排斥, 在日, 愛国心, 新風 「こんなもん思想じゃねえし、他人を侮辱したい以上の何もないこれは「表現」の名に値しないと考える」に同意。法学では「表現」だが、社会学的には「表出」。学校の通学路をデモコースにするのは論外。 2009/04/11

 表現と表出という使い分けを知らなかったのでちょっとググったりして、非常に腑に落ちるところがあり、勉強になりました。ありがとうございます。

昨日の続き - U´Å`U
ブックマーク

id:sube-subeさん

sube-sube U´Å`U (´Д`) 同感です 2009/04/13

ありがとうございますU*´Å`*U (´Д`)

id:ryankigzさん 

ryankigz バカウヨ 「人種差別じゃねっつんだよ。外国人に人権なんかねえのに……」…。ポルナレフAA略。/ただ一方で蕨市?の所有物にファシストがどうたらとか落書きしてるのもそれはそれでどうなのよ。 2009/04/13

 あの落書きも酷かったですね。市には迷惑だし、利用されるに決まっているのに、なんであんなことしたのか、ぼくには理解できません。正直、何がしたかったの? というmiracleさんは神を憎んで泣いて暮らしてさんのコメントに同意しています。ただ強調しておけば、それでもどっちもどっちとは思えませんし、あつまった人たちが愚かであることが在特会のやっていることを正当化しているとはかけらも思いませんが。しかしマジでやり方は考えろよと思います。
 
言論の自由についてのメモ - U´Å`U
ブックマーク

id:steam_heartさん

steam_heart 自由とは「好き勝手できる」の裏側に「好き勝手に扱われる」ということがあるんで、それ自体は何の価値も作らないってことではある/取り上げないことによって、声を小さくすることも出来る。荒らしはスルーも戦術。 2009/04/14

「/」の前はニュアンスが掴みきれなかった気がするので、「/」以降についてだけになりますが、スルーが戦術であるのは分かりますし、それが有効な場合も多いのも同意です。
 自分としては、外野としてあんまりなものにぶつかった場合というのを想定していました。思うにスルーするというのが戦術として機能するためには、回りのバックアップが必要です。と言って言いすぎであるなら、バックアップがあった方が、スルーは戦術になりやすいと思われます。自分が義務だと考えるのは、本人でない回りが、明らかにおかしなことを噴き上げて、誰かを罵っているときに、「まあどっちもどっちだ」ではなく、「あれはおかしい!」と発言することになります。
 steam_heartさんは、たとえばブログの場合だったら、コメント欄がおかしなことになったときのことを想定しているんじゃないかと考えるのですが、自分はむしろエントリを上げるというイメージで話していました。たとえば自分はブクマで同意を頂いたり、スターもらったり、はてはポイントまで頂いたことがありますが、そういうことが何か言いたくなったときの後押しをしてくれていますし、意見の違う人がいるときに、いきなり必死になって反論しにかかって、泥仕合という展開を自制するのにも大変助かっています。
 ……って、「スルー戦術」って言ってるんだから、別段どっちを採用しなきゃいけないって話じゃありませんでした。
 むしろ理不尽に罵られる側が「スルーしときゃいいや」って戦術を取れるようにしていくことを考えなくちゃいけないってことなのかもしれません。どうしようもないことを叫ぶ奴に対する冷たい眼差しってのをどう可視化するかってことなのかもと今思いました。ちょっと自分の中でまとまっていないところが、まだまだあるようなので、もうすこし考えてみようと思います。


 ○最後に誤読や勘違い、雑な表現などあったらすみません。>レスした皆様