伊藤正己 憲法入門第四版補訂版

 いきなり追記:追記場所をどこにするか考えた結果、先頭にしてみた。この記事には次のようなご指摘が入っている。
http://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9234087845162037893

1.
>>さらに言うと、公共の福祉の前では個人の自由は制限されるべきという考えにも、本書は異議を唱えている。

これは誤読だと思います。

2.
>>一連のやりとりを見ていると、どこかで「規制反対」=「その手の問題にコミット拒否」っていう風に受け取られるようなメッセージの発し方がなされていて、話がこんがらがっているように見えるし

これは誤解が占める要素が大きいように思えます。

 内容についてはリンク先を参照していただくことにするとして、びっくりしたのは、まず1については、係り受けの間違いか接続詞の選び間違いか、とにかく何かがあったようで、「ん、俺が読んだのと違うぞ」とさえ思わなかった(ただしこのことは「俺は理解できている」という主張ではない。理解できていないところや誤解しているところは多々あるだろうと思う。)こと(つまり全面的に俺の書き方がおかしかったということだ)と、2については、指摘を受けてから読み返してみて、明らかに頭の中にあった流れの一部が中抜けしているのがわかったこと。
 id:nornsaffectioさんから受けたご指摘の該当箇所だと思われる部分も、確かに指摘の方が正しいと感じられる。
 もともと書き方が雑なんだけど、本エントリに関しては出方が酷い。真剣に反省中。

 修正をかけてみようかとも、記事を削除してみようかとも考えたのだが、前者は昨日こんな体たらくなのに、今日ならまともに作文ができるという自信が起こらず、後者はid:nornsaffectioさん、id:seijigakutoさんのご指摘の文脈を失わせることになるので、記事自体は残すことにした。
 とはいえこんな話題であんまりにもあんまりな文を放置しておくのもいかがなものかというのは、当然考えずにはいられない。
 で、結論として皆様にお願いしたいのだけど、このエントリはhttp://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9234087845162037893とセットで読んで欲しい。早々にご指摘をくださったお二方には改めてお礼を申し上げる。気付かせてくれてありがとう。
(なお指摘の入っていない部分の一部については削除した。)
 それから指摘受けた2の部分については、意図から大幅に逸脱してアンフェアな記述になっていたので、撤回する。これは完全に俺の間違いだ。

内容(「BOOK」データベースより)
最高裁判所裁判官としての経験を踏まえ、充実した内容をコンパクトに解説。長く読み継がれてきたテキストを改訂。学説、判例、立法の展開を織り込んだ。学んだ人にも学び始める人にも好適の書。

内容(「MARC」データベースより)
身近にある憲法問題を各章の冒頭に入れ解決への架け橋とし、学説、判例、立法の展開を織り込んだ、日本国憲法の原理や仕組みを平易に解説した入門書。近年の法改正を踏まえた第4版補訂版。

 読んでいる途中で、e-politics表現の自由の限界と違憲審査基準という素敵なまとめ記事をあげてくれたので、いったい自分は何をしてるんだか、と思いつつ、意地になって読了。
 著者の伊藤正己は元最高裁判事。いまウィキペディアを調べてみたら、何やら凄い経歴だ。
ウィキペディア「伊藤正己」
 で、本書では憲法の全体を適度なわかりやすさで丁寧に教えてくれる。挫折間違いなしと覚悟して読み出したのに、むしろ興味深く読み進めることができた。結構お薦め本かもしれない。

 表現規制に関連したところで、なるほどなあと思ったのは以下の部分(太字はすべて引用者)。

・外面性精神的自由権

人間の精神そのものは、本来自由であるべきであって、公権力の介入を許さないものであるが、外部への表現行為は他の社会的利益と衝突する可能性をもつから、法的規制をうけることをまったく排除することはできない。しかし、この類型の自由権は、経済的自由権に比して優越的地位をもち、裁判規範としても強い保護をうけると解される。したがって、事前の規制は原則として許されないとか、規制の基準が広い自由裁量を許さないように明確にきめられる必要があるとか、原則として社会の重大な利益に「明白かつさし迫った危険」を及ぼすことが予見されるときにかぎり規制できるとか、ほかにいっそう制限の程度の少ない手段で規制の目的を達成できるときは、それによるべきであるなどという、合理的な規制であれば合憲であるという考え方を超えたきびしい基準が適用されると解してよい。

このように、この類型の自由権経済的自由権と区別する論拠としては(ア)憲法の明文が、経済的自由権の保障の代表的なものである二二条・二九条に「公共の福祉」による制限を予定しているのに反し、精神的自由権にはそれが明文にないということ、(イ)精神的自由について、「思想の自由市場」を設定し、そこであらゆる信条を自由に競争させ、できるだけ多くの人に同意せしめる力をもつ信条が少なくともその時点での最良の信条であるという相対主義、経験主義の考え方(これは民主主義思想に結びつく)、(ウ)政治的意見の表現について、自由な表示を許し、多数の支持するところによって国政を行うという民主制の基本的理念からいって、表現の自由国民主権と直結するものであり、この点で経済的自由権とは質的差違があるという考え方をあげることができる。法令の合憲性の推定も、それが国民多数の意思のあらわれと考えられるところによるから、多数決原理を支持する基盤となる表現の自由を制限する法令には、合憲性の推定は働かないと解すべきであろう。
p.135〜136

 後半部分については以下の部分で繰り返されていた。
表現の自由の制約の合憲性を判断する基準

(ア)事前の抑制は原則として許されない。(中略)表現が受け手に達するに先立って公権力が抑止することは、表現の自由をまったく失わしめる効果をもつから、この禁止は絶対的なものと考えてよい(中略)(イ)事後の制裁を加える法において、抑制されるべき表現が法のうちに明確にされなければならない。不明確な立法では、不当に広範囲にわたって表現が抑圧されるおそれがあり、表現に対してそれを萎縮させる効果をもつからである(中略)(ウ)価値較量において複雑な問題を生ずるとき、とくに政治的言論のような重要な表現の制約が問題になるときには、いわゆる「明白かつさし迫った危険」の基準(表現が社会の重大な利益に対し危険な傾向をもつにとどまるときでなく、それが明白で説得の余裕のないほどさし迫った危険を及ぼすときにはじめて抑制できるとする考え方)が有効である(この基準は、せん動罪の成否についてきわめて適切と思われるが、最高裁は、単純な「公共の福祉」の基準で処理している〔最判平二・九・二八〕。(エ)「より制限的でない他の手段」の基準(規制の目的を達成するために表現の自由に対する制限のより少ない他の手段がないかどうかを裁判所がきびしく審査して、そのような手段のないときにはじめて合憲とする考え方)も、表現の自由の制限は規制目的からみて必要最小限でなければならないところからみて適切であることが多い。

P.158〜159

 司法権の限界については「事件性の要件」という項目があった。

私法は具体的な争訟に法を適用してそれを解決する機能であるから、その本質上特定の者の具体的な権利義務関係について争いが存在しなければ、司法権を行うことができない(中略)。この点は、とくに法令の違憲を争う訴訟における当事者適格の問題として争われるのであり、実際には具体的な争訟が存在するかを決定するのが困難な場合があるが、実質的な利益の対立する当事者がない擬制の訴訟の裁決は司法権に含まれないのである。最高裁判所は、警察予備隊違憲訴訟の判決(最大判昭二七・一〇・八)や衆議院解散無効確認訴訟の判決(最大判昭二八・四・一五)などで、このことを認めている。もっとも、選挙訴訟のようないわゆる民衆訴訟は当事者間に具体的法律関係の争いがないが、とくに法律が司法権に認めた権限であって、憲法上許されるものである。

P.228

 なんというか、e-politicsのまとめでいいじゃんというような感じになった。さらに言うと、公共の福祉の前では個人の自由は制限されるべきという考えにも、本書は異議を唱えている。

・公共の福祉

有力な立場は、一三条の文言(十二条の「公共の福祉」のために人権を利用する責任をあわせて引用することもある)を根拠にして、第三章にかかげる権利や自由を一般的に「公共の福祉」を理由に制限しうると解する。最高裁判所も(中略)一般的に公共の福祉によって人権の制約ができると判示して、それはほぼ確定した判例法になっている。

しかし、この解釈によれば、一般の法令はなんらかの意味で公共の福祉のために制定され、また公共の福祉を目的とする要素を含むのであるから、憲法が「法律の留保」を認めずに人権を保障した意義が失われることになる。そして、政策上の便宜が公共の福祉の名のもとに人権を制約することになるおそれは大きく、人権は私益であり、全体の利益はそれにつねに優先するという思考方式に結びつく可能性が強く、それは、個人の尊重を中心とする憲法の趣旨に背馳しよう。したがって、一二条・一三条をこのように解し、それらの条項を根拠にして、公共の福祉を理由に人権を一般に制限できると解することは適当でない(二二条・二九条のようにあらためて個別的な権利について公共の福祉による制約が定められているときは別である)。(中略)ここで重要なことは、「公共の福祉」といっても、それは人権と対立する全体的利益ではなく、個人主義の理念と両立しうるものであることである。結局それは、現代社会の要請にもとづきながら、個人の人権の間に存する矛盾や衝突を調整し、全体として各人に平等で、豊かな人権を享受させる原理であるといえよう。現代の人権がますます拡大して多彩になってゆくことは国家の調整的役割を要求することになり、この意味での公共の福祉による制約を加える必要は、人権の種類によってはきわめて増大していると考えられる。

このように、個人の尊重に立脚して公共の福祉を解しても、なおそれは多義的な内容を含み、あいまいな観念であることは免れない。したがって、実際上は、それぞれの具体的な制約が憲法に反するかどうかは、一方で、制約をうける権利や自由が現代社会においてどのような価値をもつかを評定し、他方で、制約の目的やその手段からみて、それによってどのような社会的利益が実現されるかを測定し、この両者を較量して決定するほかはないであろう。

P.122〜124

 ただ、これだけで終わりにするのは、やっぱり微妙に良くない気がする(追記:ああ、なるほど。確かに書き方よくねーや。これだと、「憲法的にはここで終わりだけど、」って意味に読めますね。どう書き直すと言いたかったことになるのか、考えてみることにします。ご指摘どうもでした>id:nornsaffectioさん)。というのは、これだけだと、「表現無敵=無制限に何をやっても許される」って誤解をばらまくことになりかねないからだ。なぜ表現が法規制されてはいけないのか。それは国対個人の構図で個人に不利な結果を招くからで、であればこそ、法律が定めないことはすべて許されていると考えるのは乱暴だ。
 そこら辺を地下生活者の手遊びさんの記事がまとめてくれている。

公権力が法規制する他者危害が最小のもの、具体的には加害と被害の関係が明白でかつ深刻であるなどの条件を満たしたものであるということは、公権力の規制しない・できない他者危害が残るということになります。公権力による規制を最小のものにしようと指向するほど、規制からもれる他者危害は多くなります。これは論理的な必然です。

 他の部分には異論を挟む人もいるかもしれないが、この部分だけなら、誰であっても頷くだろう。
 一部論者は、だからエロゲー規制に反対する奴「は」こうした差別にコミットせよと言っていて、それに反発する人々もいるようだ。たぶんこれはエロゲー規制をどうするかって話から離れて、エロゲー規制に反対する奴「も」こうした差別にコミットせよってメッセージの方が通りが良いだろうと思う。一連のやりとりを見ていると、どこかで「規制反対」=「その手の問題にコミット拒否」っていう風に受け取られるようなメッセージの発し方がなされていて、話がこんがらがっているように見えるし(そうしないとつけこまれるって防御本能が働いているってことなんだろうけど)。ちなみにここでいうコミットってのは、最大限の広がりを持たせている単語だと思って欲しい。

 ってのは、感想の一部に過ぎなかったんだけども、いい加減長いから他にどうしても引用しておきたいところだけ引いたら本稿お終い。
 条約

条約とは、文書による国家間の合意であり、国際法上重要な法源である。もともとそれは国家を拘束する国際法的効力をもつにとどまる性格のものであったが、国際関係の緊密化などの事情から、そのまま国内法的効力をもちうる条約が多くなり、かつそのような効力を是認する憲法体制をとる国も多くなってきた(徳島地判平八・三・一五は、国際人権規約B規約一四条一項がそのまま国内法関係に適用されるとする)。また、条約が国内法によって実施され、国民の権利義務について定める場合も少なくない。日本国憲法も、条約を誠実に遵守することを定め(九八条二項)、法令と同様にそれを天皇が公布する(七条一号)ところからみて、条約を国法の一形式として承認していると考えてよい。なお、ここにいう条約とは、形式上の条約のみでなく、協定・協約その他名称のいかんを問わず、国家間の合意を含む。しかし、私法上の契約の性質をもつものや、条約を実施するための、またはそ5委任にもとづく細則的規定を含むものではない。

(中略)

条約の形式的効力については争いがある。日本国憲法が国際協調主義をたてまえとし、条約の誠実な遵守を定めていることからみて、それが強い効力をもつことはたしかであり、法律にまさることは異論がない。国会が条約の成立に関与することからも、国家間の合意という条約の特殊性からも、そう考えてよい。問題は憲法との関係である。国際協調主義の強調、九八条一項および八一条が条約をとくにあげていないこと、すべての国家機関が条約を誠実に遵守しなければならないことなどから、条約が優位するという立場も有力である。しかし、国際協調主義から直ちに条約優位を帰結しえないし、国際法秩序にもなお国家主権の思想が生きている。また、条約締結権そのものが憲法の授権にもとづくもので、その権能で憲法を変更するのは無理であり、条約締結という簡易な手続によって、国民主権と結びついた厳格な憲法改正手続によらないで、憲法を改変できる効果をあげうるとするのは、妥当でない。そして、条約が憲法に優先すれば、憲法秩序とならんで、条約を頂点とする法秩序が存在し、国の法秩序が統一を欠くことにもなろう。これらの理由からみて、憲法が条約に優

越すると解される(このため条約を締結するとき、憲法との抵触を避ける努力が必要になる。人種差別撤廃条約について、表現の自由を侵す可能性のある四条(a)(b)を留保しているのはその例である)。ただ、すでにのべたように、条約自体に対する裁判所の違憲審査は、きわめて限られたものであろう。なお、条約を一律に扱うのではなく、たとえば国際人権規約のような普遍性をもつ多国間の条約は、国内法としても憲法にほぼひとしい効力をもつと考えてよいであろう。

p.261〜264

 最高裁判事だった人が、日本では軽んじられる傾向にあるという条約の話を、憲法の本の末尾でこんな風に書いているのは、何か思うところがあったんだろうか。
 この箇所がお飾りなフレーズじゃなくなる日が来ることを祈りたい。

関連リンク:http://h.hatena.ne.jp/seijigakuto/9234087845162037893

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追記:こっちを読んで、色々腑に落ちた。難しい。が、結構面白いな、こういう本。

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