ジェイムズ・エルロイ二宮磬訳ビッグ・ノーウェア(上下)

 LA4部作第2弾。今年の初めにもう忘れてしまった何らかのきっかけで『ブラック・ダリアamazon)』を読んだら、予想と違って面白かったので、続きを読もうと思ったら、いつでも手に入るだろうと油断していたんだが、なんと『ブラック・ダリア』以外は品切れ状態で、古本屋をまわって入手した。ありがとう古本屋。
 それはさておき「予想と違って」という点の話から。エルロイのLA4部作が次々邦訳されていた当時、セットで聞こえてきた売り文句は「暴力」とか「情念」とかで、それを聞き勝手にイメージを拵えて、「まあきっと残酷描写がいっぱいあって力業で事件が進み、ワルって恰好いいよねみたいな作品なんだろう」と手にも取らなかった。分厚かったのもあるけど、趣味に合わないだろうと信じていたのだ。
 それが読んでみたら、そうでもなかった。少なくとも一箇所は完全にびっくりした場面があって、その驚かされ方が好みだったので、次を読んでみようと思ったのだ。
 苦笑したのが、そんな風に感じたのは俺だけではなかったようで、ちょうど『L.A.コンフィデンシャル』が出た当時、俺がわりと一生懸命読んでいた法月綸太郎も本書の解説で似たようなことを言っていた。

 ジェイムズ・エルロイの作品には、必ずといってよいほど、「暴力」「狂気」あるいは「情念」といった惹句がつけられる。そして、それらを裏書きするように、エルロイの異常な前半生――十歳の時、娼婦まがいの生活を送っていた母親が惨殺され、事件は迷官入り。十七歳で父親とも死別し、酒と麻薬に溺れて、ホームレスの常習犯罪者として青春期を過ごす――が引き合いに出される。たしかにこうした惹句は、エルロイの作風を語るうえで逸することのできないキーワードを並べたものだし、不幸な生いたちと母親の死によるトラウマが、作品にみなぎる異様な迫力とエネルギーの源泉となっているのも、また否定しようのない事実である。
 ただ他方、エルロイのダークで荒々しい側面ばかりが強調されすぎたせいで、眉をひそめて敬遠したり、思わず尻込みしてしまった読者も少なくないのではなかろうか? 正直いってつい二年ほど前まで、私はそうだった。

 法月はまた、エルロイの特色について以下のようにも言っている。

 エルロイについて回る「暗黒大王」みたいなイメージは、けっしてまちがっているわけではないが、作品の全体像からすれば、あまりにも一面的な見方でしかない。(中略)実際、一歩引いた地点から冷静な目でエルロイの作品をながめると、ふてぶてしいほど周到に計算しつくされたプロットの構成力に驚嘆せずにはいられないはずである。こうした構成力は、「情念」に頼るだけでは出てこない。強靭な「知性」の集中的な働きなしでは、なしえない作業なのだ。
 同じことが、「暴力」と「狂気」というキーワードに関しても当てはまる。前者に対して「繊細さ」が、後者に対して「ユーモア」が、おのおの際立った対照を示しながら、行間からありありと湧き上がってくるというのが、エルロイの真骨頂であり、またいちばん不思議なところでもあるだろう。いずれも両極端といっていいほどかけ離れた取り合わせだが、エルロイの小説の中ではこうした両極性が、それぞれの矛盾と対立の激しさ。強度を損なうことなく、クライマックスに向けて叙事詩的な一体感を喚起しながら、さまざまなレベルで同時に成立し
てしまう。まさに「天才芸」としかいいようのないはなれわざである。

 これは正直、『ブラック・ダリア』読了時だと「そこまでか?」と思ったにちがいないのだが、それは法月自身も同意見のようだ。このあと以下のくだりが出てくる。

エルロイの破竹の快進撃を、『プラック・ダリア』の成功にのみ帰することはできない。というのも、私事で恐縮だが、二年前、知り合いの編集者からぜひにと勧められ、眉に唾をつけながら『プラック・ダリア』を読んだ時、ロス・マクドナルドばりのプロットの完成度と犯人の意外性にはいたく感心したけれど、だからといって、文句なしに打ちのめされたような気はしなかったからだ。エルロイに対する偏見は払拭されたものの、その評価は「感動」というより、「感心」のレベルにとどまって、正直なところ、のめり込むという感じではなかった。
 むしろ、エルロイに完全にノックアウトされたのは、引き続き読んだ本書の方である。これには本当に参った。たまたま体調が悪かったせいもあるが、読んでいる途中で熱が出たほどだ。ただしくどいようだが、私の場合、エルロイの「暴力」「狂気」「情念」に感染したというより、錯綜するプロットのデッドヒート感に圧倒されたという印象がはるかにまさっている。作中にびったりの表現があるので、そのまま使わせてもらうと、「情報はたっぶりあるのにつなぎあ
わせようがない。ダニーの頭の回線はぼろぼろになってきた」(上巻二一三ハ頁)という、まさに回線パンクすれすれのような怒清の切迫感が全編にみなぎっているのだ。

 全編かどうかは微妙だが、ここで書かれていることには積極的な嘘はない。
 ということでようやくどんな話なのかを紹介できる。舞台は1950年の元旦のL.A.で男の全裸死体が発見される。両眼がえぐり取られ、何かに噛まれたようなあともある。保安官補のダニー・アップショーはこの事件の捜査を始める。
 同じ日、マルコム・コンシディーン警部補は、ダドリー・スミス警部補とともに検事補のエリス・ロウから呼び出しを受け、ハリウッド内の共産主義勢力に対する捜査に携わることになる。コンシディーンは離婚寸前で、妻の連れ子に愛着があり、その子を手元に置いておけるようにするため、手柄を必要としていた。
 ロウたちが眼をつけたのはUAESという労働組合だった。この団体を眼の仇にしていたのはロウたちだけではなく、RKOハワード・ヒューズもそうだった。それでヒューズはロウに協力することを決め、捜査チームを手伝わせる男を送り込む。それが元警官のターナー”バズ”ミークス。ミークスはかつてコンシディーンの女房を寝取ったことがあり、そのあと銃で撃たれ、警察官を辞めたのだが、撃ったのはコンシディーンではなかったかと半信半疑の気持ちでいる(ちなみにそんな目に遭ってもまだ懲りていないせいで、大変なことになる)。果たしてこのチームはうまく機能するのだろうか。コンシディーンは義理の息子を手元に置いておけるのか。
 というふたつのまったく異なる事件が同時にゆっくりと動き出し、主要キャラクターたちの動きが複雑に絡み合いながら話は進んでいく。この辺は言っても良いだろうと思えるところを紹介すれば、殺人犯を追うダニー・アップショーはコンシディーンたちのチームに編入されることになり、UAESへの潜入捜査官となり、そこまで来てようやくふたつのストーリーがアップショーによって合流する。同時進行するふたつの物語、さらにはアップショーとLA警察との軋轢などを孕みつつ、物語は進んでいく。
 ミステリーのお約束としてネタバレは禁止だし、実際この話、ネタバレなしで読めるなら絶対にそうしたほうが面白いはずなので、隔靴掻痒の感ありまくりなんだけども、たとえばもし手元に本書があって、あまりにも大量に出てくる人名やら話がどこへ向かっているのかいまいちわからない前半部にやられて投げ出しているとするなら、把握できない人間関係は無視していいし、前半部は完全に仕込みの時期だと割り切って、とにかく第二部の終わりまで読むことを奨める。この話は第二部の終わりから第三部の終わりまでが異常に面白い。そこまでいけば、それまでのややしんどい読書はきっと報われるのだ。どころか、滅多にないような……おっと、駄目駄目、なるべく前情報なしで読んだほうが面白いって言ったばかりじゃないか、自分。
 そろそろ止めておかないと誘惑に負けてネタバレさせちゃいそうだから、この記事はここまでにしておこう。とにかく読んで損しない作品なんで、古本屋で見かけたら買っておくのがいいと思うよ。これを品切れにした文藝春秋はあほだ。

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追記2016/06/02
うひょう。合本版のキンドルバージョンが出た。確認時の価格は990円。
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