ばあちゃんの趣味

 昨日ばあちゃんに会ってきた。三年ぶりくらい。ばあちゃんはじいちゃんが死んだのを機に東京を引き払い、宮城で暮らしていたのだが、去年の地震やら何やらもあって、二カ月まえから埼玉のホームに入居している。先月誕生日に電話して、「そのうち行くね」などと調子の良いことを言いつつ、なかなか予定を立てられないのが、喉に刺さった小骨的に引っ掛かっていたのもあり、一昨日急に思い立って予定を訊いてみたら「明日(つまり昨日)は暇だ」というので、勢いで行く約束を取りつけてみたのだった。
 やたらと暑い日だったけれども、大抵はエアコンが効いた電車での移動だったので、なんてことはなく家を出てから二時間半ほどで目的地に着いた。三年ぶり会ったばあちゃんは元気そうだった。この二カ月で今の暮らしにもすっかり慣れたと言う。ホームには二十人ほどが暮らしており、同い年のお友達もできたそうだ。何よりだと思った。顔を見に行っただけで何をするとも考えていなかったのだが、あちらではもうこうすると決めていたらしく、近くの喫茶店へ出掛けることになった。ばあちゃんは八十八歳でシルバーカーを押しながらの移動である。去年だか一昨年だかに背骨が一部潰れたと言っていて、後遺症が心配だったが、最近バンドを巻かなくても平気になったという。これにも安心した。ただ背は十センチ縮んだと言っていた。それでも自分の足で歩けるのだから幸いだ。
 喫茶店でアイスコーヒーを頼み、ケーキもおいしいからあんた食べなさいと言うので、ケーキも注文する。普段ばあちゃんと会うときは大抵お袋が一緒で、お袋とばあちゃんがお喋りしているのだが、諸事情から今日はおれ一人。ちょっと緊張しもしたが、ぺらぺらと口が動いた。近年まれに見るというやつである。話はずれるが、年々喋ることを思いつかなくなっていくのは、おれの個人的資質なのか、男性一般の加齢症状なのかはちょっと気になるところである。
 喋っているあいだ、あっちが痛いこっちが痛いというような話は全然なかった。今がとても幸せだと言う。おれの目から見ても、無理をしている感じはなく、楽しくやっているのが伝わってきた。
 そんなばあちゃんの元気のもとは、ひとつにはお友達とのお喋りで、もうひとつは本を「聴く」ことだ。
 ばあちゃんはおれが生まれるよりも昔に網膜剥離を患って、何度か手術もしたのだけれど、あまり目が見えない。なので本は図書館の朗読CD貸し出しサービスで借りて聴いている。これは東京にいたときからそうだった。たまにクリーム色の箱に入ったテープ(当時)が届けられるところに居合わせたことがあった。いまのばあちゃんにはそれを聴くことが生き甲斐で、それを聴いているとしみじみ幸せだと思えるらしい。
 そんな話をしているときに、ふと単純な好奇心からどんなのを訊いているのか訊ねてみた。おれが持っている朗読CDのイメージって新潮文庫のカバー折り返しに出てる夏目漱石とかくらいしかなかったので、ちょっと気になったのだ。
 そうしたらばあちゃん「そうねえ、佐伯泰英とか」
「ああ、名前だけ知ってる。朗読CDにもなってるんだ。面白いんだってね」
「あと、今野敏でしょ、山本一力、それから佐々木譲東野圭吾も好きだねえ」
 びっくりした。おれはばあちゃんの孫を三十数年やって来たわけだが、まさか聴いていた朗読CDがそんなにエンタメよりで、そんな新しい面々だとは想像もしなかった。あんまり見えない目で「相棒」の再放送なんかもよく見ているらしい。(「見たことある話のときはテレビは止めてCDを聴くのよ」って、見たかどうか判然としないまま最後まで見てるおれより内容覚えてるんじゃないか? ちなみに寺脇康文のほうがミッチーよりよかったとのこと)
 ばあちゃんの話ではどこだかに登録しておくと、毎月新刊案内みたいのが送られてくるそうだ。それをチェックして面白そうなタイトルのものを借りるのだという。「藤沢周平池波正太郎はちょっともう古い感じがするわねえ」ですって!
 なんでも面白そうなタイトルはメモを取って、借りたらそれを線で消していくようにしているそうなので、今度遊びに行ったときにはそのメモを見せてもらおうと思う。おれも読んでる話がいくつか紛れ込んでいれば、本の話もできるし。これまで、目が悪いってデータがノイズになって、ばあちゃんに読んだ本の話するのは避けていた(アクセスできないものを面白いよって言うのはなんだかなあと思ってた。つまり勘違いしてたんだわな)のだが、すごいもったいなかったかもしれない。で、帰る時間になったので、冷凍あんパンというのをお土産にもらって(お、おれだってカステラお土産に持っていったんだからね!)家路に就いた。途中立ち寄った本屋で孫は生まれて初めて志賀直哉の短編集なんか買ったりした。明らかにばあちゃんのが先を行っている。

 で、その帰り道にふと、この世に佐伯泰英今野敏山本一力佐々木譲東野圭吾、それから言及されなかったので、おれがまだばあちゃんが聴いていると知らない、あれこれの小説家が書いた物語があるおかげで、ばあちゃんの毎日はとてもいいものになっているんだなあと思ったら、生まれて初めて、ほんとうに生まれて初めて、小説家というのはすばらしい仕事をしている人たちなのだという気がした*1。「すばらしい」というのは一般向け言い換えであって、こんなことをぼんやり考えていたときに浮かんだ形容詞は「尊い」とか「貴い」とかいう、おれは誰だ的なごっつい単語で、自分で動揺したのだった。「とうとい」なんて言葉がぽんと浮かんだのはいつ以来か、ちょっと記憶にない。だけれども、九十年近く生きてきた人間に幸せだと感じさせるくらい面白い嘘話を紡げる人というのは、その一点だけで充分尊い存在ではないかと、この記事執筆時点のいまはわりと真面目に考えている。ついでにそう思ったときになんとなく手を合わせたくなったので、どうやらおれにも(俗流)仏教マインドがたんまり刷り込まれているらしいというのも、また発見だった。新発見の多い一日だった。
 ばあちゃん、また遊びに行くから、面白い物語を聴いて、元気に暮らしててね。

*1:論旨の都合上、割愛したけれど、朗読をしてくれる人やばあちゃんのところにCDを届けてくれる人やそういう制度やらに感謝しているのは言うまでもない。言及しなかったのはこのとき初めて感謝したわけではないからです。