幸田露伴「幻談」

幻談・観画談 他三篇 (岩波文庫)
幸田 露伴

4003101286
岩波書店 1990-11-16
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↑のバージョンで読んだけれども、青空文庫でも読める(こちら)し、無料のキンドル版(こちら)もある。岩波文庫版も注釈はないので、どれで読むかはほんとに趣味の問題。

 で、露伴なんて読むのは10年以上ぶりで、読んだ理由はこの本が本棚の肥やしのベテランになっていたのに気がついたから。表紙のところには

斎藤茂吉に「このくらい洗練された日本語はない」と絶賛された「幻談」の語りは、まさに円熟しきった名人の芸というに値する。

 とある。
 あらすじは川村二郎の解説にまとまっていたので、こっちも引用してみる。

 話としては実際、単純きわまりないともすこぶるたわいないともいえる体のものである。釣好きの侍が海釣りに出かけると、水の中から竿のようなものが出たり引込んだりする。舟を近づけてみると溺死者が釣竿を握っているのだと分る。その竿がいかにも見事なので、死者の手からもぎ放して家へ持って帰る。次の日この竿を持ってまた出かけると、昨日と同じように、海の中から竿が出たり引込んだりする。そこで念仏を唱えながら持ってきた竿を海へ返してしまう。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/361_47838.html

 まあ間違ってはいないのだけども、この釣り竿登場からあとの筆致が淡々としすぎて逆に怖かった。幽霊話として怖いんじゃなくて、釣竿を溺死者の死体からもぎ取る部分に逡巡とかいっさいなくて、このキャラクターの行動を説明する気が作者にないということは、「まあそんなもんだ」という共通認識が当時はあったのだろうか的な恐さね。すげえじわじわ来たので、引用しておく。

 「吉や、どうもあすこの処に変なものが見えるな」とちょっと声をかけました。客がジッと見ているその眼の行方ゆくえを見ますと、丁度その時またヒョイッと細いものが出ました。そしてまた引込みました。客はもう幾度も見ましたので、
 「どうも釣竿が海の中から出たように思えるが、何だろう。」
 「そうでござんすね、どうも釣竿のように見えましたね。」
 「しかし釣竿が海の中から出る訳はねえじゃねえか。」
 「だが旦那、ただの竹竿が潮の中をころがって行くのとは違った調子があるので、釣竿のように思えるのですネ。」
 吉は客の心に幾らでも何かの興味を与えたいと思っていた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。
 「ナニ、そんなものを、お前、見たからって仕様がねえじゃねえか。」
 「だって、あっしにも分らねえおかしなもんだからちょっと後学のために。」
 「ハハハ、後学のためには宜かったナ、ハハハ。」
 吉は客にかまわず、舟をそっちへ持って行くと、丁度途端にその細長いものが勢よく大きく出て、吉の真向を打たんばかりに現われた。吉はチャッと片手に受留めたが、シブキがサッと顔へかかった。見るとたしかにそれは釣竿で、下に何かいてグイと持って行こうとするようなので、なやすようにして手をはなさずに、それをすかして見ながら、
 「旦那これは釣竿です、野布袋(のぼてい)です、良いもんのようです。」
 「フム、そうかい」といいながら、その竿の根の方を見て、
 「ヤ、お客さんじゃねえか。」
 お客さんというのは溺死者のことを申しますので、それは漁やなんかに出る者は時々はそういう訪問者に出会いますから申出した言葉です。今の場合、それと見定めましたから、何も嬉しくもないことゆえ、「お客さんじゃねえか」と、「放してしまえ」と言わぬばかりに申しましたのです。ところが吉は、
 「エエ、ですが、良い竿ですぜ」と、足らぬ明るさの中でためつすかしつ見ていて、
 「野布袋の丸でさア」と付足した。丸というのはつなぎ竿になっていない物のこと。野布袋竹(のぼていだけ)というのは申すまでもなく釣竿用の良いもので、大概の釣竿は野布袋の具合のいいのを他の竹の竿につないで穂竹として使います。丸というと、一竿全部がそれなのです。丸が良い訳はないのですが、丸でいて調子の良い、使えるようなものは、稀物で、つまり良いものという訳になるのです。
 「そんなこと言ったって欲しかあねえ」と取合いませんでした。
 が、吉には先刻客の竿をラリにさせたことも含んでいるからでしょうか、竿を取ろうと思いまして、折らぬように加減をしながらグイと引きました。すると中浮になっていた御客様は出て来ない訳には行きませんでした。中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。
 「詰らねえことをするなよ、お返し申せと言ったのに」と言いながら、傍に来たものですから、その竿を見まするというと、如何にも具合の好さそうなものです。竿というものは、節と節とが具合よく順々に、いい割合を以て伸びて行ったのがつまり良い竿の一条件です。今手元からずっと現われた竿を見ますと、一目にもわかる実に良いものでしたから、その武士も、思わず竿を握りました。吉は客が竿へ手をかけたのを見ますと、自分の方では持切れませんので、
 「放しますよ」といって手を放して終った。竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛とあらわして、あたかも名刀の鞘を払ったように美しい姿を見せた。
 持たない中こそ何でもなかったが、手にして見るとその竿に対して油然として愛念が起った。とにかく竿を放そうとして二、三度こづいたが、水中の人が堅く握っていて離れない。もう一寸一寸に暗くなって行く時、よくは分らないが、お客さんというのはでっぷり肥った、眉の細くて長いきれいなのが僅に見える、耳朶が甚だ大きい、頭はよほど禿げている、まあ六十近い男。着ている物は浅葱の無紋の木綿縮と思われる、それに細い麻の襟のついた汗取を下につけ、帯は何だかよく分らないけれども、ぐるりと身体が動いた時に白い足袋を穿いていたのが目に浸みて見えた。様子を見ると、例えば木刀にせよ一本差して、印籠の一つも腰にしている人の様子でした。
 「どうしような」と思わず小声で言った時、夕風が一ト筋さっと流れて、客は身体の何処かが寒いような気がした。捨ててしまっても勿体ない、取ろうかとすれば水中の主が生命がけで執念深く握っているのでした。躊躇のさまを見て吉はまた声をかけました。
 「それは旦那、お客さんが持って行ったって三途川で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすったらどんなものでしょう。」
 そこでまたこづいて見たけれども、どうしてなかなかしっかり掴んでいて放しません。死んでも放さないくらいなのですから、とてもしっかり握っていて取れない。といって刃物を取出して取る訳にも行かない。小指でしっかり竿尻を掴つかんで、丁度それも布袋竹の節の処を握っているからなかなか取れません。仕方がないから渋川流という訳でもないが、わが拇指をかけて、ぎくりとやってしまった。指が離れる、途端に先主人は潮下に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌を十分に洗って、ふところ紙三、四枚でそれを拭い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉は魂ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、やがて見えなくなりました。吉は帰りをいそぎました。
 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、ナア、一体どういうのだろう。なんにしても岡釣の人には違いねえな。」
 「ええ、そうです。どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川、真鍋河岸や万年のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上の方の向島か、もっと上の方の岡釣師ですな。」
 「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」
 「なアに、あれは何でもございませんよ、中気に決まっていますよ。岡釣をしていて、変な処にしゃがみ込んで釣っていて、でかい魚を引っかけた途端に中気が出る、転げ込んでしまえばそれまででしょうネ。だから中気の出そうな人には平場でない処の岡釣はいけねえと昔から言いまさあ。勿論どんなところだって中気にいいことはありませんがネ、ハハハ。」
 「そうかなア。」
 それでその日は帰りました。

 死体を見つけた驚きがどこにもないのである。こういう死体の扱い方はどっかで見たような気がするとあれこれ考えてみたら、映画の『ハリーの災難』がこんな感じに死体を完全にもの扱いしていた。あれは全編ギャグだったのでもしかすると、この作品もギャグなのかもしれない。翌日の会話もギャグだと考えたほうがいいのかもしれない。

 「どうも旦那、お出でになるかならないかあやふやだったけれども、あっしゃあ舟を持って来ておりました。この雨はもう直あがるに違えねえのですから参りました。御伴をしたいともいい出せねえような、まずい後ですが。」
 「アアそうか、よく来てくれた。いや、二、三日お前にムダ骨を折らしたが、おしまいに竿が手に入るなんてまあ変なことだなア。」
 「竿が手に入るてえのは釣師には吉兆でさア。」
 「ハハハ、だがまあ雨が降っている中あ出たくねえ、雨を止ませる間遊んでいねえ。」
 「ヘイ。時に旦那、あれは?」
 「あれかい。見なさい、外鴨居の上に置いてある。」
 吉は勝手の方へ行って、雑巾盥に水を持って来る。すっかり竿をそれで洗ってから、見るというと如何にも良い竿。じっと二人は検め気味に詳しく見ます。

 吉兆ってあんた……そして今日も釣りに行くのか。
 そして釣りに出かけたふたり。この竿で釣ってみると釣れる釣れる。そして、その帰り、客は物思いに沈むんだけど何を考えているのかというと、

客は昨日からの事を思って、この竿を指を折って取ったから「指折り」と名づけようかなどと考えていました。

 何を考えているのかと!

 そうしたら、またしても海の上にプカプカと竿らしきものが浮かんでいるのが目に入り、ふたりはお互いの顔を見合わせ、

客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた。
 竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と言って海へかえしてしまった。

 と終わる。そのせいでなんか説話の定型みたいになっているのが残念で「指折り」と名づけようかと考えるのを前日の終わりに持ってきて、

 さあ出て釣り始めると、時々雨が来ましたが、前の時と違って釣れるわ、釣れるわ、むやみに調子の好い釣になりました。

 のあと、「めでたしめでたし」と締めてくれていたら、一生忘れられない作品になったのではないかと思った(個人の感想です)。
 いや、現行バージョンでも十分ぞわぞわしたし、乾いた笑いを洩らしながら読んだのだけれど。
 これを「無内容な話」とまとめる解説には首を傾げざるを得ない。これが無内容なら、「内容」とは何を言うのかという気がする。
 すごく妙な話を読んだ。