バベルの謎―ヤハウィストの冒険 (中公文庫)
長谷川 三千子
中央公論新社 2007-04
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タイトルから「バベルの塔の話をあれこれ論じるんだろうなあ、ヤハウィストってのは、旧約聖書学者の呼び名なんだろうなあ、入門者に旧約聖書のスリリングな世界をご紹介ってか?」と思ったのだが、一部当たって一部外れた。内容は「なぜこの物語は書かれたのか」ってのを、著者が思い入れたっぷりに妄想するって感じで、好き嫌いの分かれそうな本だと思った。個人的には面白かったけど。
著者はまず、バベルの塔の物語の本文に「人間の高慢、不遜のしるしとしての塔」という描写がほとんど見あたらない、という指摘から始める。つまり人間の高慢に神が怒って、言葉を混乱させたというあのストーリーは誤読だろ言うのだ。ではこの物語の作者はいったい何が言いたくて、このような物語を書いたのか。
ということで、話は創世記の初めから探索にはいるわけ。
で、さっぱり知らなかったのだけど、モーセ五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」→ウィキペディア「モーセ五書」)の作者が誰かについての研究によると、モーセ五書の中では、神のことを「エローヒーム」と呼ぶ場合と「ヤハウェ」と呼ぶ場合があって、ヤハウェと呼んでいる部分をJ資料*1、エローヒームと呼んでいる部分をE資料(のちにE資料*2とP資料*3に分化)、と分けて、それぞれ別の人間が書いたものと考えているのだとか。
これらの資料がつぎあわせされてモーセ五書は成立した。本書の著者は、そこからJ資料の部分だけを取り出して、どんな構想があったのかを考察しようとする。
これをするためにまず必要なのは、ある種の見切りというか、開き直りみたいなものだろう。客観的な証拠なんてあろうはずもないのだから。著者の武器は自分が門外漢であるというその一点。門外漢であればこそ、そもそも一個人の作品なのかすら決着していないJ資料に対して、次のような断言が可能なのだ。
このような(著者単数説と著者複数説のこと)、両極端に分かれる見解のどちらを取るかということは、もはや「文献学」によって決着のつく問題ではない。結局のところ、最後にはこれは、その作品をどう読むかにかかわる問題となる。すなわち、後の世の人々に切りきざまれ、はぎ合わされた断片を通読して、そこになお、否定しがたく「一つの個性」というものが貫いているのを見てとれるか否か――それが答えを決めるのである。
ここで作者は「事実関係」を無視すると宣言し、自らにはこう見えるという視点を述べはじめる。
これから見てゆくとおり、J資料は、「原初史*4」のどの部分をとってみても、「一人の作者による作品」として理解するほかはない、はっきりとした特色と一貫性を示している。それは、明らかに或る一貫した構想に導かれて構成されており、しかも、その構想の大胆さは、とうてい今から三千年も前の人間の構想とは信じられないほどである。
このくだりにおいて、読者は選択を迫られる。このとんでも臭がぷんぷんする語りに身をゆだねて、ひょっとしたら面白いこと言い出すかもしれない著者の論に付き合うか、それとも、諦めて本を投げ出すか。そもそも「とうてい今から三千年も前の人間の構想とは信じられない」って、ならそれお前の頭の中で生まれたのと違うのかと、いいたくなるわけで、どうしようか悩みどころかと思う。俺は何言い出すか、わくわくしてきたので、すんなり進んだけれども。
んで、このJ資料の作者を「ヤハウィスト」と呼び、ヤハウィストのドラマ作りを冒険と呼び、物語は進んでいく。
では、本書でヤハウィストが構想したことになっているモデルとはどのようなものだろうか。それは神と人と大地のドラマなのである。しかもここでは人を作った神と人の素材となった土のあいだで、人へのイニシアチブが争われ、神は敗北を続けるという、にわかには信じがたい、それゆえ新鮮な物語が展開されていく。
バベルの塔の物語は、そうしたドラマのクライマックスとして用意されている。神が怒ったのは、人間の高慢に対してではない。神がそこで見たものはなんなのか。ネタバレになるので*5、答えは本書を読んでみて欲しいが、なかなかに面白い解釈だった。ただこの解釈はドストエフスキーや芥川龍之介などの文学作品の影響を受けまくっているような気がした。
とはいえ、評論なんて、実証よりも読んでいるときのワクワク感が大事だろうと思ったりもするので、本当か嘘かはおいておいて、たとえ妄想であっても面白ければいいんじゃないかと。実際スリリングっちゃースリリングだったし。
そしていつ見てもブリューゲルの描くバベルの塔は格好いいと思った。