森山卓郎『表現を味わうための日本語文法』


 以前「外国語として出会う日本語(感想)」が割と面白かったので、シリーズの他の奴(作者は別の人)を読んでみた。今回のは文学的な表現に対して文法的にアプローチしてみようというもの。取り上げられるのは、例えば「馬鹿に」という副詞で、説明はこんな感じ。

その程度の甚だしさに少し違和感を感じつつ、なかばあきれるように言う表現として使われています。

 これだけでも「ほう」と思えそうだが、さらに語法としては、

  △津波が来るとすれば、その波は馬鹿に大きいはずだ。
のようには少し言いにくいということです。まったくの推量の表現の中で「馬鹿に」を使って程度が大きいということを表すことは基本的にないようです。

 という解説も加えて、「単に程度の甚だしさを表すのではなく、現実の状況をめぐって、その程度の大きさを少し違和感をともなって表す表現だと言えそう」だという結論を導いている。
 これを話の枕に、たとえば「に」と「へ」の違いだったり、「が」と「は」の違いだったりが遡上にあげられる。個人的に考えさせられたのは、「持ち主の受け身」の文の考察で、どういうときに「迷惑」の意味が出るかというくだり。

「耳を吹かれる」のように自分に一体化したものが「を」格になっていれば、迷惑という意味は出てこないのですが、「財布」「酒」のように、自分と一体化していないなら、迷惑という意味が出るのがふつうです。

 確かに「財布を盗まれた」は迷惑になるから、思わず納得しかけたが、「犬に腕を噛まれた」だったら「を」格であっても迷惑になるまいか、また、腕のかわりに乳首なんかを入れてみたら、迷惑になったりならなかったりするような気がする、などと考え出したらわけが分からなくなりつつも、面白かった。

 あ、そうそう、その前の部分で与謝野晶子

 夏のかぜ山よりきたり三百の牧のわか馬耳ふかれけり

 という歌について、著者は「夏のかぜ山よりきたり三百の牧のわか馬の耳をふきけり」というパラフレーズを提出して、なぜこれよりも与謝野バージョンの方が良いように思えるのかという考察をしていて、能動・受動の違いを「目のつけどころの違い」と説明し、与謝野バージョンは受け身を使うことにより、「三百」というたくさんの若い馬たちを中心に取りあげる表現になっていると解釈していた。その結果、「カメラアングルとしては、必然的に、広く遠くまで見渡せる視野を得ることに」なるという。ここはなるほどなあと、納得できた。

 また「も」についても取り上げていて、これは長年、釈然としないままだったので、非常に興味深く読めた。
 どういう「も」かというと、「夜も更けて参りました」みたいな場合の「も」。他に更けてきたものが何もないのに、なぜ「も」なのか。

ここでヒントになるのが、
  昨日は楽しかった。お寿司も食べたし、映画も見た。
のような、表現です。実際には「お寿司を食べること」と「映画を見ること」の二つしかしていなくても、こういう表現は成立します。ほかに「食べた」ものがなくてもいいのです。この場合、取りあげられているのは、「も」がくっついている「お寿司」だけではなく、いわば、「お寿司を食べること」の全体です。
  お寿司を食べることもした、映画を見ることもした。
のように、ほかの楽しいこと、が「も」によって並べられるような意味になっていると言えるのです。
(中略)
  夜も更けてきました
も、「秋も更けた」「夜も更けた」のように部分だけを取りあげるのではなく、
  時間が経過してきた。夜も更けてきた
のように、事柄を全体として取りあげる表現となっています。そのため、ほかにもいろいろある、ということがいわばぼかされて、宴のお開きの挨拶にふさわしい、柔らかい表現としての効果を持っていると言えるかもしれません。

 このぼかしをぼかしに思わない誤用、あるいは省略されたものが再生できない場面での使用が「も」の誤用になるのかもしれないなあと思った。自分もよくやるんだけれど。

 他に時間表現や「どうか」と「どうぞ」の違いとか、使い分けのルールを言われてみると、腑に落ちたり、疑問がますます膨らんだりして、全面的に教わるというような本ではなかったけれども、取りあげるトピックや引用テキスト*1には、創意工夫のある、なかなか良い本だった。日本語に興味のある人が読めば、損はしないのではないかと思う。

追記2019/02/21 なんてこったい、品切れになってるじゃないか。でもってとんでもない古書価格が表示されてる。

復刊ドットコム案件化してしまった。増刷しましょうよ岩波書店さん。




 

*1:とりわけ草野心平の「ぐりまの死」という詩は単体としても面白く、それを素材に分析が行われることで、分析自体に興味を持てた。