「犯罪者も刑が終わればただの市民」を読んで

 こんな話があるそうだ。

法務省は、性犯罪受刑者が出所した後の居場所を把握するため、衛星利用測位システム(GPS)端末を同意の上で装着させることを検討している。GPSを活用した犯罪の再発防止策が欧米などで広がっていることを背景に、日本でも実施の可能性が出てきた。

痛いニュース(ノ∀`) : 性犯罪者にGPS装着を検討 「人権やプライバシー侵害」としての反対の声も - ライブドアブログ

 で、痛いニュースのコメント欄を見て、こんな記事が書かれた。
犯罪者も刑が終わればただの市民

僕は犯罪者の人権を認める。認めた上で、刑罰を与えて欲しい。そして刑期を終えたらごく普通の市民として生活して欲しい。

犯罪者も刑期を終えれば僕らと同じ市民である。その市民にGPSを付けるなど言語道断である。個人的なことは感情で決めてもよいだろう。しかし、社会的なことは別だ。僕らが刑務所に望むのは、感情的な「仕返し」なのか?少なくとも僕は違う。僕が刑務所、そして刑罰に望むのは再犯防止と犯罪件数の減少である。

 もちろん犯罪者にも人権はある。刑務所に望むのは再犯防止と犯罪件数の減少である。しかしこの人の主張に全面同意するのにはどうにも抵抗があって、考え込んだ。なんでか? ここで守れと言われているのは性犯罪者の権利だったからだ。いや守るなそんなもん、という話ではなくて、リンク先の文章だけだと、被害者のことがスルーされている気がする。
 人権という概念はそもそも国家対人の構図から発生したものだと俺は理解している。圧倒的強者が好き勝手やりすぎないように、強者の力を制限するルールが権利なんじゃないかと。これが違うなら完全に明後日の話をしてしまうんだけども、とりあえず合っていることにしてもらって話を続ければ、国家対人というのは力を持つ者対持たない者ということなんじゃないかと思う。つまり権利ってのは強い奴にハンデを背負わせてパワーバランスを調整しましょうってツールではなかろうか。法律よくわからないか違うのかもしれないけど。
 ここでリンク先の人は国家対個人の構図で、GPSの埋め込みを強者の弱者への侵害と捉えている。実際そういう面がないとはいわないし、犯罪者全般だったらその通りと思えるかもしれない。っていうかたぶん思った。
 けれども、性犯罪の構図は犯罪者=強者で、被害者=弱者の構図なのだ。だからこのケースで権利の話をするなら、ミクロの構図の弱者に対する強者のハンデが必要になると俺には思われてならない。
 もちろん加害者:被害者モデルだけで考えて国家:個人モデルをスルーすれば、それが前例になって別のケースに転用される場合もあるし、コメント欄見てるとその場合でも喝采を送りそうな気配がぷんぷんするのは嫌で仕方ないんだけど、それから性犯罪の中身も多様だろうから、場合によっては加害者:被害者よりも国:個人で考えた方が良い場合もあるんじゃないかとも思うんだけど、それでも全面的に反対だとは言い切れない。
 なぜ言い切れないのか、このケースの弱い方は被害者で、そこを守るのが権利の基本的な考えなんではねーの、というのと他に、もうひとつの理由は「性犯罪者にも人権を」という主張をするとき、男である自分はその主張によって抱えるリスクがほとんど見えない(あるのかもしれないけど実感できない)ということがある。つまりこの主張は自分にとって覚悟なく言えるフレーズだというところも引っかかるのかもしれない。
 これが他の犯罪であるなら「それでも人権を守れ」というのは、リスクの一端が自分にかかってくるので、もっと簡単に同意できると思う。でもこの件はリスクは他人回しになってしまう。だからその主張はフェアでない気がする。
 自分としてはオプションとしての採用(個々の案件で裁量する)なら、この動きには賛成だ。
 上手くまとまらなかったので、さらに考えるところがあったら、追記するかもしれない。でもたぶんスタンスはあまり変わらないと思う。この主張だと性犯罪とそれ以外で加害者の扱いが変えろって話になってしまうから、説得力はないとわかってはいるけど、一貫させるために犯罪者全般の人権を制限しろとは思わないので我ながら無茶苦茶だとは思うんだけど。とりあえず考えたことのメモということで。