俺は誰のアイドルでもなかったんだから

 ニューズウィークを読んでいたら、こんな一頁記事が目に止まった。


 去年のこと、カンヌ国際映画祭で、ある40代黒人中年アメリカ人の半生を描いたドキュメンタリーが上映された。幼い頃の家庭の事情やいじめられた体験といった生い立ちから始まって、仕事での成功と転落、そして現在を、本人が淡々と、時折感情をあらわにしながら語るという体裁で、独白を引き出すためにカメラは三十時間も男を撮り続けたらしい。
 映画が終わると観客たちはスタンディングオベーションで作品を称えた。拍手の先にはスクリーンの中で話をしていた男がいた。彼は観客に背中を向けた。照れたわけではない。

「頭の中で、いろんな声が飛び交っていたんだ」と、彼は言う。「ずっとこんな声がしていた。『この白人野郎たちは手をたたいているが、おまえのことを好いちゃいないぞ』って」

 男は怖かったのかもしれない。自分でも「物事がうまくいっていると、ああ次には悪いことが起きるぞと思ってしまう」と言っているから。エントリータイトルも彼の言葉だ。誰に何を思われても構わないと強気なことを言ったあとで、付け足されたようなひとこと。

 俺は誰のアイドルでもなかった。

 大抵の人は誰のアイドルでもないだろう。しかしこの台詞はとても捨て鉢な気分の表現のように思われる。というのは、本当にそうであるなら、こんな台詞をいう必要などないからだ。つまり実際のところ、男は誰かのアイドルだったことがある人物だということだ。すくなくとも俺はそうであったことを知っている。世界にそのことを知る人が大勢いることも知っている。

 だが彼は急にこんなことを言いだしたわけではない。7年前にも「みんなに俺のことを覚えていて欲しい」という発言をしている。たまたまその発言を聞いたときには、なぜ彼がそのようなことを言わなくてはならないのかとショックを受けた。7年経ったが、まだ誰も彼をあの状態から助け出せていない暗然とした気分が去来した。

 彼の名前はマイク・タイソン。元統一世界ヘビー級王者にして宇宙一強いと言われた男だ。

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 6/3号 [雑誌]

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