宮崎夢柳『鬼啾啾』

 去年のことであるけれど、『〈怪異〉とナショナリズム』(amazon)って本を読んだ。で、これは複数執筆者による論集なので一本一本当たり外れ(読んでるおれとの相性といったほうが適切か?)が当然あったのだけど、論じられているものに興味を持ったという基準で行くとマイベストは倉田容子の「テロルの女たちはなぜ描かれたのか――宮崎夢柳『鬼啾啾』の虚無党表象をめぐる一考察」だった。こんな感じに始まる。

 革命/恐怖(テロル)の女たちは、なぜ政治小説に必要とされたのだろうか。
 本章では、宮崎夢柳の代表作「鬼啾啾」(「自由燈」 一八八四年十二月十日付—八五年四月三日付)を主に取り上げ、恐怖の表現とイデオロギー、そして女性像の結び付きについて考察する。 夢柳は自由民権運動の興隆に伴って生産された政治小説の書き手であり、その小説には当然、自由民権思想が反映されている。ただし、同時にそこには、思想を伝達するためだけであれば必要とは思われない恐怖の表現が過剰なほど織り込まれている。それらの恐怖の表現は、一見すると常套的な怪談の再生産にもみえるが、その中心に自らの意志によって革命に身を投じる女たちが置かれている点や、虚無党員が投獄された監獄表象と連続性がある点に、伝統的な怪談との差異を見いだすことができる。
 検討したいのは、これらの恐怖の表現がテクストの政治的側面とどのように結び付いているのかということである。先ほど夢柳の小説には自由民権思想が反映されていると述べたが、実のところ、その思想の内実は必ずしも自明ではなく、近世から近代への移行期特有の種々の秩序の揺らぎが内包されている。思想や秩序の揺らぎと恐怖の表現の結び付きについて考察するとともに、そこで女性像が何を担わされているのか検討したい。

 これを読んだ時点でおれにわかったのは、この論考が宮崎夢柳って人の書いた『鬼啾啾』に出てくる女性キャラについて論じるということと『鬼啾啾』という作品に怪談めいた記述があること、自由民権思想を反映していると言われているけれど、そこには思想や秩序の揺らぎが見られることで、知っていたのは明治の二十年以前、政治小説というジャンルがあったということくらい(読んだことがあるのは『経国美談感想)』の前半だけかな)。なんだけども、上記の出だしだけで、「なんか面白そうな」と思ってしまったので、そっから結構前のめりになって論を読んだ。どうやらロシアの虚無党(ニヒリスト)の活動を書いたルポルタージュを翻案した小説らしい。で、クライマックスというか最後のほうの部分の引用(ここでも引っ張りたいのはやまやまだが、ルビの対処するのが面倒すぎるので割愛、ごめん)があって、そこでは、

サンクトペテルブルクの風雨の夜、虚無党員の幽魂がロシア皇帝ピョートル一世の騎馬像に集う。幽魂が再び散乱して消えるやいなや「啾啾たる哭声」が響き、またしばらくすると燐火が帝宮のうえで「呵々(からから)と笑ふ」光景が見える。(略)この描写は「鳴呼何れの時か斯る不吉不祥の光景を一変し、啾啾たる鬼哭全く絶えて魯西亜官民の間、温風和気の緩然たるに至るべきか、想へば嘆息の極みなりかし」という一文へと続き、官民調和が鬼哭の絶える要件とされている。

 幽霊が飛び交ってからから笑うってさすが明治時代の翻案小説である。これは読んでみたいじゃないか。と、このとき早くも『鬼啾啾』はおれの読みたい作品リスト入りしていた。ものは明治の前半である。宮崎夢柳が百歳の寿命を誇ったとしても著作権保護期間は終わっているだろう(この時点では生年月日も没年も知らなかった)と、まずは青空文庫へ。
 なかった。
 んじゃamazonへ。
『虚無党実伝記鬼啾啾 (リプリント日本近代文学 81)』というのがヒットしたけど在庫も中古もなかった。
 仕方ないのでググった。全然情報がない。
 ということは、である。
 この倉田容子の論考、面白いのに扱ってる作品を読める人はごく限られてしまってるってことで、それってもったいなくない?
 と思ってしまったがために、『鬼啾啾』捜しの目的が変わってしまった。
 こりゃテキスト手に入れてKDPするべーよ。倉田の読者(おれのお仲間)が『鬼啾啾』読めるようにしたろーじゃないの。
 となり、どうしたら本文が手に入るか考え、図書館のサイトで政治小説集ってキーワードを入れ、出てきた文学全集の名前をググって収録作に『鬼啾啾』が入っているものを捜したら、大昔に出た筑摩の全集がヒットした。古書価も安いので注文し、本文ゲット。
 そのあと近代書誌・近代画像データベースっちゅうありがたいサイトの存在を知り、そこで『鬼啾啾』の本文が公開されていることを知り、「しまった、買うことなかったのか」と一瞬嘆いたのだけれどさにあらず。見に行ってもらうとわかるんだけど、明治十年代ってまだ平仮名の字形も統一されてなかったらしく、その時点のおれの判断としては「こんなもん読めん」だった。
 というわけで届いた『明治文學全集5 明治政治小説集(一)』に収録された『鬼啾啾』をざっと読んだ。
 開巻早々白昼堂々の暗殺事件発生である。なぜそうなるに至ったか当時の政治状況、民衆の困窮、虚無党の発生を語る前半から、ペートル、クラポキン候(現代だとピョートル・クロポトキンと書かれる)の脱獄計画を語る中盤、そして皇帝アレクサンドル2世暗殺事件の終盤へと話は進む。それぞれのパートには、ウエラ、サシユリツチ(現代の表記はヴェーラ・ザスーリチ)アレイ、リソツプ(モデルがいるのかどうか不明)、ソヒヤ、ペロウスキー(現代の表記はソフィア・ペロフスカヤ)というヒロインが配され、うまいこと連作っぽくまとめられているが、伊藤整日本文壇史1』によれば、『鬼啾啾』連載中に掲載紙「自由灯」は二度販売停止処分を食らったそうで、その影響なのかソフィアが中心人物になったあたりから勢いが落ちていく感じはあった。最近で言うと『エルピス』ってドラマを見たときと同じような印象をおぼえた(『エルピス』も途中から脚本が「何してるのこれ?」って大崩れを起こす。結果、俳優ってすげえなって感想になったけど)。もうひとつ印象に残ったのはロシアの政治を語る話なのに、喩えに使われるのが中国の故事だったことで、柳瀬尚紀とかが言っていた「われわれにはもう漢文の素養がない」ってのは、こういう話かと納得がいった。確かに今だったら中国の故事を使ってロシアの事象を「わかりやすくしよう」とは思わないもんなあ。見たことのない漢字が出てくるとか以上にこういうところが失われたんだなあとか思った。
 で、あとは入力と思って一太郎でポチポチ始め、半分くらいまで快調に進んでいた(「何これどうしたら出てくるの?」って文字は漢字辞典オンラインに頼ったらほぼ解決した。大変ありがたかった)のだけど、ある箇所でロシアの漢字表記が「西亜」になっていたのが引っ掛かった。前半はずっと「西亜」だったのである。昔の作品だし表記の統一とかあんまないのかなあと思いつつ、上記近代書誌・近代画像データベースの該当箇所を見てみたら、「魯西亜」となっていた。写し間違いである。そりゃ多少はあるだろう。が、見つけてしまった以上は直さないわけにはいかない……ほかにもあったりするの? と、この時点で写すネタ元を変えたほうがいいんでね? という考えが浮かんでしまう*1。漢字はなんとかなる。問題は平仮名だ。「〇〇は」が「〇〇ハ」と表記されてるのはまだわかるとして、「す」とかおれの目には「む」の親戚ですか? だし、「に」は「み」の異体字ですか? ってな見え方をしている。これを読み解けるの? となった。
 原典という意味で写すときに安心なのは近代書誌・近代画像データベース本だけども、読むのに時間がかかる、読み解き楽な活字本には紛れがある。作成した電子書籍が何部売れるかを考えるなら投げてしまうのが正解か、しかしもう半分以上写している……と頭を抱え、結果取りあえず今写している本文を最後まで写してから原典で全面チェックするっていう、後から考えると一番面倒くさい選択肢を選ぶことにして、最後まで写し、チェックを開始した。そしたら手元にデータがあるせいか、結構妙な形の平仮名も読めるようになった。
 そうなると今度気になるのはレイアウトである。原典には段落も句読点も一切なく、『明治文學全集5』は適宜段落を分け、句読点を挿入していた。もちのろんであったほうがいい。が、後から挿入したものだったら、おれが変更してもいいよね? ってことで、このほうがよさそうって箇所の句読点を変えたり段落を変えたりまで始めてしまい、ますます完成が先延ばしになった。
 で、やーっと大体できただろって思い、あとは一太郎epubファイルを作ってキンドルページビューワーで残ったミスやらを確認し販売ですよとふんふん表示を見てみたら、今度は傍線がおかしい。
 この作品は人名に傍線、地名に二重傍線が引いてあり、当然それも忠実に写したのだけど、なぜかどちらもが一本線で、しかも人名の右じゃなくて左に線が引かれている……。何これ。
 想像するに、キンドルの読んでくれる書式設定と一太郎の書式設定とのあいだに齟齬があるんだろう。となると、epubスタイルシートをいじらないと駄目ってこと? 
 いやいやいや、面倒くさすぎるだろ。なんかもっといい(楽な)解決策があるはずだ……思い浮かばねえ。
 ってことで仕方なく未知の領域に踏み込む覚悟を決めsigilをインストール。悪さしてるのがなんなのかって傍線の設定に決まっているのでそこに狙いを定めて検索してみたところ、文字飾りunderlineをoverlineにすれば、傍線右側に出るよってepub3の解説みたいなので見てやってみた。できた。しかし二重傍線が出ない。どうやったら二重傍線出るの? って検索してたらamazonさんの説明がヒットして、二重傍線タグは無視しますって書いてあり、ゲームオーバー。波線とかにもできないようなので、いっそ傍線か二重傍線のどっちかを消すかと考えたのだけど、今だと中黒使うところが「、」で表現されていて、たとえば、
ウエラ、サシユリツチソヒヤ、ペロウスキー
 みたいに人名が並ぶところを考えると、人数が2人から4人に化けてしまう。地名も1つで2箇所みたいに見えてしまう。
 じゃあ両方とも一本傍線だけで……とすると、人名か地名か微妙なところが原典よりもわかりにくい。
 太字や傍点も試してみたが、妙に浮き上がって見えてしまうのが引っ掛かる。
 大人しく中黒使って文字飾りなしにするのは、せっかく「、」の今はなくなった(よね?)使用法が記録されているのだから、拾わないともったいない気がする。
 結局、人名をoverlineにして地名はunderlineのまま左傍線にする形で妥協した。将来的に二重傍線が表示できるようになったら、そのまま二重傍線に移行するはず(原稿のスタイルシートは二重傍線指示のままなので)なのでその日を待ちたい。っていうかmobiファイル非推奨に変わったっていうからいい子にepub作ったのに、mobiより表示が思うようにならないってなんなのいったい(mobi出力だと右傍線はそのまま出てくる。一本線しかないけど)。
(追記2023/05/15 こういうの詳しい知り合いになんとかならない? と連休前に質問したら返事が届きスタイルの定義文を送ってきてくれた。早速貼りつけて表示を確認してみたら二重傍線にしか見えない線がちゃんと入っていた。ので、再アップロードしてみた。専門家すごい。)
 と、いった具合に、落ちる穴全部落ちながら進んだ感じではある私作成バージョン『虚無党実伝記 鬼啾啾』であるけれど、どうにか本日レビューも通り、発売開始のお知らせが来た。価格は240円。『〈怪異〉とナショナリズム』読んだときのおれが味わった「読みたいのにない」を味わっているお仲間の方に言いたい。今日から手に入るよ! ついでにこの経路以外で『鬼啾啾』読んでみたいと思っている人(本稿執筆時点か将来かは問わない)にも言いたい、読めるよ!
 まあ、何人くらいいるのかはわからんけどね、でもほら、こういうのっていつ読みたくなるかわからないし、読みたくなったときに手に入るって大事じゃん? ってことで商品ページへのリンクを貼っておくからよかったら覗いてみてね。

*1:なお『明治文學全集』の作業に関わった人の名誉のために付言しておくと、仕事が雑だったわけではない。たとえば原典の振り仮名は結構適当で辞書に基づいて判断すると仮名遣いが間違っているという所が少なからず存在していたが、『明治文學全集』版ではその多くが修正されていた。単に完璧を期すというのは難しいっつー話である。それとは別にそのルビミスのおかげで当時の人の感覚がちょっとわかった気もして面白かった。辞書的には用字が複数ある同じ言葉の仮名遣いが複数存在することがあり得るのだけれど、同じ言葉なんだから用字ごとの表記をおぼえたりしなくていいじゃんって意識が垣間見えた。ついでに「同じ単語」とはどこまでを含むのか、みたいな問題も考えられそうで興味は尽きない(ただし調べる程強い興味ではない)