オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
鈴木 光太郎
新曜社 2008-10-03
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文化人類学者のドナルド・ブラウンは否定されているのに既成事実として何度もよみがえる人類学の話や考え方を、比喩的に「神話」と呼んでいる*1。ここでは、心理学のなかのそうした神話のいくつかを叩き割ってみる。
というまえがきのもと、選ばれた心理学の神話は以下の通り。以下は目次の引用
- オオカミ少女はいなかった――アマラとカマラの物語
- 野生児の存在は確認されているが、その代表例としてオオカミ少女の例を出すのは、この話が嘘なので相応しくない。
- まぼろしのサブリミナル――マスメディアが作り出した神話
- 完全な出鱈目がマスメディアの自主規制によって既成事実化してしまった。
- 3色の虹?――言語・文化相対仮説をめぐる問題
- 言語相対仮説も弱いものには妥当性があるが、極端なものは間違い。幾何学的錯視は形態視のできる動物の視覚に共通する現象なので文化によって遠近法を理解しないなんてことはない。そんな話になったのは最初の実験をした奴の絵が下手すぎることに原因があった。
- バートのデータ捏造――そしてふたごをめぐるミステリー
- 似てて当然のところと似るはずがないところをしっかり分けて考えましょう。
- なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか――ソークの説をめぐる問題
- 母親の心音が赤ん坊の成長に影響するという説は提唱者のソーク以後、有意の実験結果が出ていない。
- 実験者が結果を作り出す?――クレヴァー・ハンスとニム・チンプスキー
- プラナリアの学習実験――記憶物質とマコーネルをめぐる事件
- プラナリアと記憶物質についてはまだなんとも言えない段階である。
- ワトソンとアルバート坊や――恐怖条件づけとワトソンの育児書
- 心理学の歴史は短いか――心理学のウサン臭さを消すために
作者はさきに引用した「ヒューマン・ユニヴァーサルズ」の翻訳者で実験心理学者。読んでいて楽しかったのは、普通心理学が前提にしがちな、フロイトの論なんかに身も蓋もない突っ込みを入れているところ。たとえばこんな感じ。なぜ幼児期のことを憶えていないのかという問いに対して、フロイトは「幼児期の思い出や感情は、記憶のどこかにはあるのだが、抑圧されて無意識のなかにあり、意識までのぼってくることはないからだ」と説明する。それに対して、
私に言わせれば(ほかの研究者も言っていることだが)、幼い時のことを覚えていないのは、幼い時にはまだ記憶のシステムが十分に機能していないからだし、(記憶は部分的にことばに頼ることも多く)幼児期には言語の習得がまだ十分なものではないからだ。それに、時が経つにつれて昔のことほど曖昧になり、忘却の彼方に消え去るからだ。別に、無意識や抑圧をもち出してこなくても、「幼児期健忘」は説明できる。
また幼児期の性欲という話にも
私たちの心の底は、それほどまでに、セクシャルなものとスカトロなものとで満ちているのだろうか。私は、そんなことはないと思う。
心理学関係の本が馬鹿馬鹿しいと思うのは、実感を無視した謎の形而上学が展開されてしまうからだ。序盤でこういうコメントを挿んでもらえると、この人は権威を鵜呑みにしない人なんだねと信頼感がわくもので、眉唾眉唾せずに読み進めることができた。
前半は気になったところをはてなハイクに流し込みながら読んだ(その部分のログ)。
前半特に印象深かったのはまず、サブリミナル効果の実験(上映中にポップコーンを買えってメッセージを送る奴)をやったのは広告業者のジェイムズ・ヴィカリーって人で、実験をする元ネタにする論文・報告書・学会発表が何も確認できず、実験自体も心理学の実験と称するにたる最低基準を満たしていないということ。
それからブレント・バーリンとボール・ケイの基本色彩語に関する研究。
これは世界各地の言語98を選び、そこで使われている色彩語の中から一般性があってすぐわかる基本的な語(基本色彩語)を抽出、比較することで見えてくることがあるか調べたもの。
その結果判明したことは
- 基本色彩語は2〜11のあいだに収まる。
- 基本色彩語は全言語共通で2色の場合は白と黒。三色なら白黒赤。五色なら白黒赤緑黄。十一色なら白黒灰赤緑黄青茶紫桃橙になる。ちなみに数学的に可能な組み合わせは2048。つまり色彩語はそれぞれの言語で恣意的に作り出されているのではない。
ということで色を識別する順番は人類普遍である可能性があるらしい。
4章ではふたごに関する説の元ネタが実はでっち上げであるという話が取りあげられて、スキャンダルの顛末をまとめている。これは読み物としてもなかなかスリリング。
後半では馬や猿に言葉を教え込もうとした人たちの奮闘と勘違いと失敗とか、プラナリア(ウィキペディア)を使った記憶物質の探求とか、赤ん坊への条件付け実験が尻切れトンボに終わった話とか。最後の赤ちゃんの話は、実際何かで読んだわけではなかったけど、ワトソン博士の言った「私に健康でよく習慣づけられた子どもたち1ダースと、私の望む育児環境を与えてほしい。どの子どもであろうが、その子の才能、好み、傾向、能力、適性、親の人種に関係なく、なんにでも、医者、弁護士、芸術家、大商人、そしてそう、乞食や泥棒にさえもしてみせよう。」ってフレーズは国語の問題か何かで見た記憶があって、「ああこれがネタ元か」と思った。ちなみにワトソンの主張はその後「そんなわけねーだろ」と思われているものの、実際に人間の赤ん坊を使うというところがネックになって追試はできていないそうだ。そりゃそうだ。
ところで本書では「教科書も間違っている」とか、捏造や嘘を放っておく科学者も罪深いんだとか、心理学者は迷信に弱いとか、業界批判めいたことが書かれている。なんでだろ? と気になったのだが最後まで読むとどうやらこれは読者対象が心理学を志す学生であるらしいとわかり、なるほどと納得できた。つまりこれは次世代への提言を一般向け読み物に近いフォーマットで出した教育書だったのだ。それでいて素人にも面白くなるように工夫もされている。計算が甘くて、半年で書き上げるはずが8年かかった(どんな計算間違いだ)というのにもそれなりの理由があるように感じられた。こういう「すすんでダマされる人たち」との戦いは得るものが少ないだろうし、叩きつぶしたと思っても何度もよみがえってくるのが神話である以上、決着なんて付けられない。それを敢えてやるのが専門家の責任だという意志を感じた。そういうプロ意識は好きだ。
欲を言えば、まるまる一章使って国内のネタを取りあげて欲しかったな。いやどんなんあるのか知らないけど。
あとこの本は一般書に見せかけて教育書だというコンセプトのせいか、注が充実している。その中になるほどねえと思った文があったので、引用しておく。ありえるかもしれないこととあったことの区別について、作者は島田裕巳が「カルロス・カスタネダ」出版時のインタビューで「ドン・ファンが実在したかどうかは問題じゃない」言っているのをこう批判している。
ニセモノをホンモノと偽っても、一世を風靡してしまえば、あるいはそれが本質をとらえていれば、ホンモノと同じでいいではないかというわけだ。(中略)学問の世界に身をおきながら、この論理は一体どこから出てくるのか。(中略)現実と空想をごっちゃにしてはいけない。ところが、この例のように、このあたりまえのことが通じない人がいる。オオカミ少女の例で言えば、その記録が捏造だということを証拠をあげて説明すると、「そうは言うけれど、でもどこかほかにオオカミ少女がいる(いた)かもしれないではないか」という反論がかならずある(どこかにいるというなら、連れてきてほしい)。現にあること、これまであったことについて議論をしているのに、ありえること、あるかもしれないことに話をすり替えるのだ。しかも、本人はそのすり替えに気づいていない。だが、ありえるかもしれないこととあったこととは、まったく別の話だ。
人の話を聞くときにはこの点に気をつけなくちゃいけないよねってことで最後にメモ。
関連リンク:日々平安録鈴木公太郎「オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険」各章についてキッチリまとめ+コメントあり。
追記2015/05/28
紹介し忘れていたけれども、ちくま文庫に入った。面白い本だったので、これを機にさらなる読者がつくといいなと思う。
増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 (ちくま文庫)
鈴木 光太郎
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