あわわ、えらいものを読んでしまった。手に取った理由はほんとあってなきがごとしで、「杉江の読書 bookaholic認定2016年度国内ミステリー1位 真藤順丈『夜の淵をひと廻り』(KADOKAWA)」の、
主人公シド巡査が勤務地である東京郊外の町・山王子に対して注ぐ愛情が些か常軌を逸した度合いで描かれるからである。彼は山王子の住民について可能な限りの個人情報を収集し、それを極秘のファイルに仕舞い込んでいる。殺人事件が起きれば本庁の刑事たちへの協力は惜しまないが、その裏で独自の捜査も進めていく。どれもこれも我が手で町を護るという思い入れがあるためだ。職業は警察官だが、シドは極小の自警団員でもある。
という紹介に興味をそそられたからだったのだけども、正直いささか舐めていた。というより、ごく普通のミステリーを予想してキンドル版のサンプルを落とした。正直に言うと、ハードカバーの本でお値段税抜き2000円(キンドル版で税込み2000円)である。購入する気はなかった。雰囲気だけ見ていい感じだったら文庫落ち(したときのキンドル版リリースを)待つつもりだった。
あ、フォーマットに言及しておくと、一人称の連作短編集です。
冒頭はこんなだった。
おかげで俺の神経はズタボロなんだよと阿坂は言った。
警察官だって怖いものは怖いんだよクソッたれ。
お前はよくそうやって、平気な顔をしていられるな?
われながらこの文章をなんのために書いているかはわからないが、同期の言葉をまっさきに記したのは、ある意味でそれが、この手記の一貫したモチーフのようなものになるんじゃないかと考えたからだ。“警察官だって怖いものは怖い”。それはまさしく私たちの偽らざる実感だった。
(中略)
立番をしていて視線がぶつかるなり、〇・二秒で目を逸らす通行人たち、あいつらがいったいどんな欲望や劣情を隠しているのか、お巡りさんに何を気取られまいとしたのか、想像しているうちにおっかなくなってくることはないか? あいつらが暮らす住居の戸は、その向こうにある“他者の国”とのボーダーラインだ。越えたさきは有史上最悪の暴君が治める王国かもしれないし、ありえない奇習がまかり通るアンタッチャブルな秘境かもしれない。世帯の数だけのクソッタレの秘境だ!
手記なのはわかっていたけど、まさかこんな恐怖を語る同僚のことばから始まるとは思わなかった。いきなり他者の内面の不明性から感じられる恐怖の話である。しかも語っているのが警官なので、不自然じゃないし、とんでもなく納得できる、というか、警察官やってたらこういう認識になるんじゃないかなあって、おれも思ってたよ! みたいなことが、え! そんなふうに表現するの! という独特なフレーズで表現されている。すげえ!
たとえば、上で引用した阿坂はときどき「人間どもが、蟻塚に見えることがある」とか言い出す。蟻塚である。ぎょっとする。ところが、
ずっとそう思ってたんだよ、俺は。人間ってのはそれぞれの欲望や妄想を塗り固めた土塊みてえなもんだってな。どいつもこいつもわけのわからねえ堆積物で、表情なんて知れねえ、意思疎通なんてできるはずもねえ。気狂いじみた妙ちきりんな物体だ。俺の目にはたまに、街頭にいるやつらが糞や汚物や欲望の滓を盛った蟻塚に見えるんだよ。
と説明が入ると、「わかるー」ってなっちまう。まるでマジック。
この台詞に対して語り手のシド巡査は疲れすぎだとたしなめる。すると、阿坂が賭けを持ちかける、
「そこまで言うなら、賭けるか、もしもこの先、掛け値なしの狂人と遭遇したら……」
「アサカの勝ち、会わなかったら私の勝ち。いいですよ」
シドは優秀であることを自負したお巡りで、「すくなくとも警官はめったなことがないかぎり、狂気だとか心の闇とかいったレッテル貼りで物事を見誤っちゃいかん」と思っているのである。
ところが、そんなたがの外れた奴に(当然)遭遇してしまう。
こんなことがどうしてできるのか、常人のふるまいとは思えない。これほどの凶行にどんな理屈がつけられるのか、私の浅知恵などおよびもつかない。降りかかってきたのはとほうもない暴威と狂熱の塊だった。この男は、この男は、狂っている。
何があったかは読んでのおたのしみだけども、大抵の場合、こんな風に書かれても、ぶっちゃけ「ほう」と思うくらいのものじゃないですか。ところがこのときも、読者のおれは確かに作者が意図したであろう、背筋の寒さを感じたのだ。もうほんと凄い。
で、ここまでが第一話「蟻塚」。第二話「優しい夜の紳士」も冒頭から凄い。
ある五月の暮れ、いつもと変わらない夜だった。
通りがけの路上で、私はこの世界の秘密(原文傍点)を吹き込まれる。
そんなものを聞かされるのはごめんだったが、街なかで喧嘩と麻薬とゲロと不審者を見かけたら素通りできないのが私の仕事だ。望まないことにも耳を貸さなくちゃならなかった。
世界の秘密である。そして、その秘密を告げるのは「この街の意思。この街そのものにほかならない」と自称する人物で、
実を申せば、この世の時間は、過去と現在と未来とが区別なく同時に存在している。すべての時間はこれすなわち一方向に流れるものにあらず。気が遠くなるような永遠のなかにたえず渦を巻いている。あらゆる出来事はすでに起こっていて、そのなかを衆生の意識が移動してるだけで……
などと宣う。ここでまたしても、このイメージわかる! などと思った。昔、毎日似たような時間にコンビニまで出かけて帰るという行動を繰り返していた時期があって、そのときによく、身体が移動しているのか、身体は無限にあって、そのひとつひとつを意識が通過する結果、連続したセル画を見て動きを感じるみたいなふうに移動を感じてるだけじゃないかとよく思ったのを思い出したのである。まあ、そんな思い出話はどうでもいいんだけど。
そして、シド巡査は世界の秘密を聞かされる。
身の毛のよだつような咆哮が響きわたった。
私自身の声だった。
(中略)
私の身体は、まるごと裏返っていた(原文傍点)。
(中略)
おかげで何もかもが変わってしまったよ……
で、そのあと連続通り魔事件が発生して、12歳の女の子がなんとか生き残ったという情報が提示されたところで、キンドル版のサンプルは終わった。
すごい困ってしまった。
買わないつもりで落としたサンプルである。なのに、もうとんでもないレベルで引き込まれていたのである。
ストーカーっぽい巡査の日記語りというイメージとかけ離れているうえに、無茶苦茶好みだと思った。
普段小説を読むときに考えるのは、ごく普通の「読んでて面白いかどうか=先が気になるかどうか」とか「文章が肌に合うかどうか」くらいでそれがクリアされると「楽しいなあ、面白い本だなあ」となる。
ところが、これは違った。うまく言えないのだけど、「え、この本の対象読者って俺じゃない?」と感じたのだ。何それ、って自分でも思うんだけど、『若きウェルテルの悩み』とか『人間失格』とかを紹介するときに「これは自分のために書かれた本だと思った」みたいな言い方するじゃない。あれが近いんじゃないかと思うんだよね。ここにはおれが書かれてるって方向性じゃないんだけど、出てくるモチーフ出てくるモチーフ、「おれもそういうの興味ある!」って感じで。もしこれが人を選ぶ作品であるなら、おれは選ばれた側だというか。こんなふうに感じる作品にはぶつかった覚えがなかった。
あー、本以外で一回こういう興奮体験があったのを思い出した。エヴァーノートを初めて見たとき。あのときの「おれが求めてたのこういうやつだ!」感がすごい近い。だから、本に寄せてパラフレーズするんだったら、「おれはこういうのが読みたかった!」になる。「これ面白いじゃん」ではない。「おれはこういうのが読みたかったんだ!」という発見とも歓喜ともつかない感情だ。わかりますかね……。
結果、数日悩みに悩み、サンプルをもう一度読み返し、払いましたよ、2000円。このあと、残念なことになったらどうするつもりだと思いつつ。
ところがどっこい。興味は消えることはなく、最後まで「おれが読みたかったのはこういう小説だ!」と思い続けて読了した。
えーと、ちょっと落ち着いて、もう少しわかってもらえそうな話し方に挑戦しよう(読み終えて間がないものだから、大変な興奮状態にあります、ぼく)。
この本が面白いと思うのは、寓話だからだ。読み取ったことを一言でまとめるなら、本書はトラウマ体験によって強迫観念を抱えた人間が立ち直るべくあがく話である。それをお巡りさんと死体が出てくる話の外見でやっている。大変悲惨な描写もあるので、絶対読めとは言えないけども、『西の魔女が死んだ』とか『海辺のカフカ』とか好きな人が読んだらたぶん面白いはず。つまり、表に書いてあることの向こう側を読み取りたがるような読み方のできる本が好きな人なら気に入るんじゃないかという気がする。
おれもそういう話好きなんだけど、その手の話とのそりが合わないところもあって、それは表に書いてあることがそれだけ読んであんまり面白いと思えないってことなんだよね。それを表の筋だけ見ても面白く読めるようにしてるという点では『守備の極意』(野球ストーリーと神話っぽいストーリーをミックスした本で、これもお気に入り)なんかが、本書と近いんじゃないかと思ったり。
これは決しておれの妄想ではない(と思う)。というのは、次のような箇所があったからだ。
こうした事件は一見すると単純で深みがないようだが、その実、原初の神話のような手ざわりをそなえていると私は思う。最初の殺人者がひとしれず罪を犯してから、いったいどれだけの者がその罪を暴かれずに、闇の向こうに消息を絶ってきたことか――手つかずの原生林のような領土に放りだされた“殺人”とその“謎”に向き合うということは、とりもなおさず、おぼつかない赤子の手つきで神話を繙くような作業なのかもしれない。
もう、ここ読んだときに「やっぱりそうか、わかってた!」と嬉しくなってしまったよ。いやもちろん、物語内の一事件に関する語り手の感想ではあるのだが、自分としてはこのくだりは本書読解のガイドであると考えたい。そうじゃないとタイムスパンと時代背景がおかしなことになってるのとか、ただの欠点だし。
いい加減長くなってきた。でも最後に一番気に入ったというか驚嘆した短篇についてちょっとだけ書かせて。それは「ぼくは猿の王子さま」って話で、路上で出産された子供(母親は出産から数時間後に亡くなった)のその後的なお話なんだけど、その子、伊達幸男は「やっちゃいけないこと」を意識するとどうしてもやらずにいられないというオブセッションに苦しみながら生きている。物語の時点では30前後。その幸男の語りの冒頭がまたすごいのだ。
――ぼくのいちばん古い記憶はなんだと思うですか?
それはですね、教会の神父さんがよく吹いていた、口笛のメロディなのです。
たぶん誰でも聞いたことのあるやつです。♪サル、ゴリラ、チンパンジー、というあれです。
これ、すごくない?
ほんとにこの文字列みたら、メロディーわかるでしょ。あー歌ってたやついた(あるいは歌ってた)って思うでしょ。だけど、小説の小道具として出てきたことがある覚えなんてなくね? 少なくともおれはなくって、「うわ、これ使うのか」ってびっくりしたんだよね。しかもこのメロディーの描写が、
この世の中のつらいことぜんぶどうってことないと気持ちを弾ませるようなメロディ
ですよ。これを読んだ瞬間、頭のなかに浮かぶのはたぶん、身のまわりにいた小学生の誰かでそいつは「サル、ゴリラ、チンパンジー」ってちょっとチンパンジーにスタッカートとか利かせながら歌ってるわけで、ほぼ百パーセント上機嫌。そんなイメージと引用した文章が重なると、「サル、ゴリラ、チンパンジー」のあれのイメージがなんかとってもキラキラしてくるじゃない。曲のイメージが全然違ってくる。その辺の石ころが宝物に変わっちゃったみたいな感じがした。と、同時に、天涯孤独の子供が一生懸命サル、ゴリラ、チンパンジーって口笛を吹いてる姿がもういたたまれない感じに思えてくる。メロディーラインが音で浮かぶだけならそうは思わないけど、「サル、ゴリラ、チンパンジー」って声で再生されるからだと思う。この脳天気なお馬鹿フレーズと吹いてる子供のギャップがもうなんとも言えない。これを使おうと思った作者はただ者じゃないでしょ。
年末にとんでもないものを読んだ。なんていうか、大好きで最高だった。目茶苦茶売れて欲しい。おれは割と趣味が凡庸でアンテナも低いほうなんで、本書の間口は結構広いと思うから、ちょっとでも興味を感じた人は取り敢えず読んでみて(絶対読めとは言えないって自分で書いたのに……)。