○○の一

柴田宵曲の『古句を観る』(amazon青空文庫)を開いたら、冒頭でこんな文字列に眼がとまった。

各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。

(p.3)

 眼がとまったのには理由がある。この「○○の一」は以前広辞苑によく出てきた言い方だったのだが、柳瀬尚紀が『広辞苑を読む』(amazon)「読み方がわからない」と延々絡んでいて強く印象に残っていたのと、その結果(かどうか、ほんとのところはわからないけれど現象として)『広辞苑』から「○○の一」表記が激減*1したためだ。

記憶では「そんな日本語はねえ」くらいの勢いでこきおろしていた気がしていたが、今『広辞苑を読む』を確認したらそこまでの勢いはなかった。ただ「の一」を「『ノイチ』と読むしかなさそうだ」なんて嫌みを飛ばし、

要するに、以上のように見てきて分ったこと「の一」は、国語辞典の「の一ピおよび「の一」方式はやめたほうがいいということである。 p.37

 と提言して、それでも収まりがつかなかったのか、

 本章で「の一」にこだわったのは、筆者自身が「一」の読みが分らないからである。
 古事記の一注釈本によれば、「一の子孫」と書いて「一(ひとはしら)の子孫(こ)」と読む。国語辞典はそこまで教えてはくれない。
 そこまで古くなくても、たとえば幸田露伴に「其心未だ一ならず」とあり、これが「イツ」であるのは国語辞典が教えてくれる。しかし「双方の古疵を知つてゐる一の他人」となると、やはり国語辞典は「イチ」か「イツ」かを教えてくれない。

 と当てこすりを続けているのは不思議な情熱である。何がそんなに気に入らなかったのだろう。というのも、「読めない」ってのは絶対に嘘だろうと思われるからである。最初に引いた例を見れば「ひとつ」と読むに違いないし、広辞苑の例も「ノイチ」なんて語呂の悪い言い方せずに「ひとつ」と読めば済むところ。もう柳瀬尚紀も亡くなっているので、どうしてこんなにこだわったのか語られることもないのが残念。発言者を考えれば戦前の文献に当たる量が足りていなかったとも思えないし、「一」が名詞で送り仮名なしでも「ひとつ」と読めるのを知らなかったとも思えない。

これがずっと頭に残っているのは、おれ個人が以前の「の一。」表記に辞書っぽさを感じていたからかもしれない。
ってまとまりのないエントリなんだけど、そもそも書き出した動機が「あ、『の一』だ。記録しとこ」だったので仕方ない。


古句を観る (岩波文庫)

 読み終わったので感想書いた。
gkmond.blogspot.com

*1:手元のアプリ版『広辞苑第七版【岩波書店】(ONESWING) - Keisokugiken Corporation』で全文検索してみたところ「かかり」の項目に残っていたので全滅ではなかったが、柳瀬が報告しているところでは当時のCD-ROM版では9811件の「の一。」が収録されていたそうなので、じつに9810件の減少である。