金閣寺 (新潮文庫)
三島 由紀夫 
新潮社 2003-05
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Amazonで詳しく見る by G-Toolsisbn:4101050082
宮台真司がオウム事件当時書いた「終わりなき日常を生きろ」を数十年単位(発表は1956年)で先取りしたような本。主人公である私は、幾度となく訪れる破局の予感に恋いこがれながら、結局破局など訪れず、それに耐えられなくなって、永遠の、つまり終わりなき日常の象徴である金閣に火を放つ。
大塚英志の「サブカルチャー文学論」に引用されていた記事によれば、著者の三島自身は「こういうことをする奴はこんなことを考えてないんだろうけど」と言っていたのが、個人的には非常に興味深い。宮台の分析がデタラメなのか、三島の創造した人物がある種のモデルとなって、「こういうことする奴が、こんなことを考え」るようになったのか。
構図だけ取り出してみるなら、いまだ公開されないスター・ウォーズのエピソード3を先取りしているようにも考えられる。柏木というダークサイドの導き手によって、アナキンである私は、悪の道へと墜ちていく。彼をそうさせたのは、人間の闇でもなんでもない。終わりなき日常なのだ。
破滅とは何も戦争による滅びだけとは限らない。作中では老師から見捨てられることや、セックスも破滅のメタファーとして描かれている。破滅とは変化の謂いなのだ。女と交わろうとする瞬間、主人公はその行為への意味づけが余りにも甚大で、重量を支えきれることができず、変化しない言い訳として想像の金閣寺が出現する。怖じ気づく自分への言い訳の金閣寺。それは主人公の感じるような美の象徴であるとともに、変わらない日常の象徴でもあるだろう。彼は破滅と延命の矛盾するふたつの欲望を抱え込み、そこから世界を見つめる。
とかなんとか、あれこれ考えては見たけれど、「だから何だっていうんだ」と言われると、えへへと笑うしかない。破滅を願い、永遠に続く日常=金閣寺を手にかけ、その燃え尽きる様を遠くから眺めながら主人公が最後に生きようと思ったと呟いて終わるのも、この照れ笑いみたいなものが混じっていると思う。結局のところ人は、どれだけゴチャゴチャ考え、終わらない日常を破壊しようと試みても、日常の前に敗北するしかないのだ。想像の金閣の放つ輝きに対して、唾棄すべき日常世界を暗色に染め上げた物語の最後が闇夜であるのは、観念が滅んでも日常は残るということを暗示している。作者のその後を考えるなら、それを理解しながら三島はそのことが許せなかったのだろうか、などとふと思いもするが、まあぶっちゃけどうでもいいや。