読書メモ『武器としての「資本論」』どうしてもわからん

 こないだ白井聡の『武器としての「資本論」』を読んだのね。いろいろ面白かったんだけど、一箇所どうしても理解が追いつかないところがあった。以下のくだりである。

 必要労働時間とは、すでにお話ししたように、労働者自身と労働者階級が再生産されるために必要な労働時間です。マルクスの議論を素直に読めば、賃金水準は再生産のために必要な最低限の水準に張りつけられ、それを時間に換算したものが必要労働時間だということになります。
 再生産のために必要な賃金水準が、たとえば日給一万円としましょう。それだけもらえば自分自身が生活できるだけでなく、家族を作り子供を作って、労働者階級を再生産できるということです。その一万円の価値を生産するのに必要な労働時間が、たとえば五時間だとします。しかし実際に働く時間は一日八時間だとすると、差が三時間あることになります。その三時間が剰余労働時間で、剰余価値の生産に当てられている――というのがマルクスの説明です。
 必要労働時間を短縮するとは、どういうことなのか。
 たとえばある仕事において、日本の労働者の賃金相場が一万円だとします。ところが、ベトナム人研修生を連れてきて同じ仕事をさせれば、日給五〇〇〇円しか払わないでいい
すると一万円分の価値を生み出すための労働時間は日本人の場合は五時間だったけれども、ベトナム人研修生はその半分、二・五時間でOKということになります。すると剰余労働時間では、日本人を雇っていたときには三時間だったものが、ベトナム人だとそれプラス二・五時間で、五・五時間になります。

pp.208-9

 ここの定義だと必要労働時間は「労働者自身と労働者階級が再生産されるために必要な労働時間」なわけだけど、どうして「ベトナム人研修生」を連れてくると、必要労働時間が減らせるのかが理解できない。現実問題外国人のほうが賃金が低くされる場合は多いけど、それは必要労働時間が少なくて済むからなはずはなく、再生産については知ったこっちゃないからなわけでしょ。物価の安い土地に工場建ててそこで人を雇うって話ならまだわかるわけだけど、外国人連れてきたって、「必要労働時間」は減らせないでしょ。暮らす場所の物価は日本人労働者と変わらないんだから、再生産に必要な金額も同じじゃない? 雇う側が無視しやすくなるだけで。おれてきには「たとえば」で始まる例が、「必要労働時間を短縮する」ことの例には思えないというか、こんな例を「必要労働時間の短縮」と言っちゃいけないんじゃないかと思うんだけど、なんか見落としてるんだろうか。それとも本書でそう書かれていた記憶はないけど「必要労働時間」というのは雇用側が決めるものって定義が前提にあるのか? なんとも不思議。
 あ、全体としては、「ああ、そういうことだったの」って思ったところも色々あった(特に新自由主義=富裕層の仕掛ける階級闘争って指摘は「あーーーー」ってなった)ので、最初に触ってみる本としてはいいんじゃないかという印象だった。ここだけどうしてもよくわからなかったってだけで。